淡雪
「どいてください」

 静かに、良太郎が黒坂に言った。

「い、いやちょっと待て。奈緒を斬る気か?」

 先ほどまでは奈緒に対する怒りが膨らんでいたが、だからといって女子を斬る気は、黒坂にはない。
 それに懐剣の血が音羽の血でないなら、それこそそこまでの憎しみを抱くほどのことでもない。
 いくら音羽の顔が潰れたかもしれなくても、それぐらいで黒坂の気持ちが離れることはないからだ。

「花街で大暴れし、花魁を斬りつけ、会所の者数人と父上を刺した。そして今また一人、襲おうとしている。そんな人を、野放しにはできません」

「でも、あんたは奈緒の許嫁だろう」

 黒坂が言うと、良太郎は少し悲しそうな顔をした。
 途端に奈緒が、甲高い笑い声を上げる。

「あんたに私が殺せるか! 借金してでも私の恋路を邪魔するほど、私のことを想っているくせに! 斬れるもんなら斬ってみやがれ!」

 あはははは! と仰け反って笑う。
 あれ、と黒坂は視線を落とした。
 何か違和感がある。

「奈緒……」

 違和感の正体を確かめようとした黒坂だったが、捕まえていた手が緩んだ隙に、奈緒は黒坂を突き飛ばした。
 そして良太郎の前に躍り出る。

「あんたも邪魔だ! 皆邪魔者だ!」

 叫びながら、懐剣を構える。
 良太郎が、抜いた刀を振りかぶった。

「よせっ……」

「奈緒殿、覚悟!」

 黒坂の声と良太郎の声が重なった。
 良太郎の刀が、奈緒の肩口に入る瞬間、黒坂の感じていた違和感が、噴き出す血飛沫と共に霧散した。

「……奈緒殿……」

 刀を振り下ろした格好のまま、良太郎が呟いた。
 返り血を浴びた顔に、一筋涙が伝う。
 足元に倒れた奈緒は、血で汚れているものの、初めて会ったときと同じ、可愛らしい娘に戻っていた。
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