淡雪
 頭を下げたものの、奈緒は依然、硬い表情のままだ。
 きゅ、と唇を噛むと、先ほどよりも強い瞳で小槌屋を見た。

「あの。ついては無理を承知でお願いがあります」

「何ですかな」

「新たな借り入れをお願いしたいのです」

 思わぬ言葉に、小槌屋がまた驚いた顔をする。

「はい? ……どういうことですかな」

「お借りした分を完済せずに、またお願いするのはご迷惑かと思います。ですが、今はどうしても、まとまったお金が必要なのです。此度の昇進が叶わなければ、お借りしたお金を返すこともできませぬ。借金を返すためにも、何としても父は出世せねばならないのです。お願いします」

「う……む……」

 畳に額をつけて言う奈緒に、小槌屋は腕組みして唸った。
 此度のこの金を賄賂に回さなかったのは、これっぽっちでは足りないこともあろうが、少しでも返すことによって、小槌屋にはきちんと返す意志あり、と示すためだ。

「高保様にも、昇進した暁には借財もきちんとできる、とはお聞きしておりますが」

 難しい顔で、小槌屋は煙草盆を引き寄せ、煙管に刻み煙草を詰めた。
 昇進のための賄賂となると、かなりの額だ。
 確約されてもいない事柄に、おいそれと莫大な投資をするわけにはいかない。

「必ず昇進できるよう、相応の借り入れをお願いします。聞き入れてくだされば、どんな条件でも呑みます。私の婚儀が破談になっても構いません」

 必死で言い、再び額を畳につける。
 沈黙が落ちた。

 駄目か、と奈緒が諦めかけたとき、店先のほうで物音がした。
 僅かに話し声が聞こえ、足音がこちらに近付いてくる。

「旦那さん。頼まれてたもん買ってきたぜ」

 聞き覚えのある声と共に、すらりと障子が開く。

「おっと、お客か……て、何であんたがっ!」

 どこぞの甘味処の包みを下げて顔を出したのは黒坂だ。
 奥にいるものの、あまりに静かだったので来客中とは思わなかったらしい。
 奈緒を見、あからさまに狼狽えた。
 それに気付き、小槌屋は少し目尻を下げ、黒坂にも同席するよう勧めた。

「お嬢様のお気持ちはわかりました」

 何となく黒坂に目を奪われていた奈緒は、小槌屋の声に、はっと我に返った。

「で、では……」

 勢い込んで言う奈緒を手で制し、小槌屋は番頭が運んできた茶を一口啜る。
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