淡雪
第六章
「どうしたの、奈緒さん。酷い顔よ?」

 お稽古処で、奈緒の顔を見るなり、薫(かおる)がぎょっとしたように言った。

「何だかいろいろあって、眠れなくて……」

 目の下にがっつり隈を作った奈緒は、ため息をついて腰を下ろした。
 自分でも、何をこんなに気にしているのかと思う。

 伊田がちゃんと動いてくれているようなので、左衛門の昇進は、ほぼ確定だろう。
 とすると当初の予定通り、奈緒は良太郎の元へ輿入れできるわけで、何ら気に病むことなどない。
 そこに黒坂の入る余地はないのだし、そもそも奈緒の人生設計にはいなかった人ではないか。

「婚儀を前にしたら、いろいろあるのもわかるけど」

 誰もまさか、奈緒が他の男のことで悩んでいるなどとは思っていない。

「でも奈緒さんは、好いた人のところに嫁げるのだから羨ましい。そんな悩むことなんかないでしょう?」

 薫がきらきらした目を向けてくる。
 良太郎の評判はすこぶるいい。

 整った目鼻立ちに一本気な性格。
 女子に現を抜かすこともなく勤勉なため、ゆくゆくは父親の跡を継いで、それなりの地位が約束されている。

 奈緒もこの縁談が持ち上がったときは夢のようだと思った。
 父親同士の付き合いでお互い見知ってはいたが、左衛門が乗り気だったとはいえ、まさか良太郎も奈緒を選んでくれるとは。

「良太郎様なら悪所通いもしないでしょうし、そっちの心配はないしね」

「わからないわよ。男の人なんて、花街の花魁に誘われたら、ころっと行ってしまうのでしょうし」

 ぺろっと口をついて出た言葉に、薫は驚いたように奈緒を見た。

「何言ってるの。花魁が自ら誘うなんて、あるわけないでしょ? 大体ああいう人は、花街から出られないのが普通なんだから」

「そうかしら? 花魁ともなれば、そうでもないんじゃない?」

「花街の花の花魁がそんなふらふらしてちゃ、道中の価値がないでしょ?」

 なるほど、そう考えると、つくづく招き屋の花魁というのは特別なのだな、と思う。
 もっとも小槌屋の言うこと全てが真実であれば、の話だが。

「奈緒さんは、本当にそっちのことを知らないのねぇ」

 呆れたように言われ、奈緒は赤くなって俯いた。
 花街のことなど、女子は知ることもないと思っていたのだが、世間的にはそうでもないらしい。

 実際花街は男にしか解放していないわけではない。
 花見や道中見物に、女子も参加できるのだ。

「そうだ。今度梅を見に行きましょうよ。花街のお花は綺麗なのよ」

「え、で、でも花街なのでしょう? 怒られないかしら」

「お花見なのに、何のやましいことがあるの。殿方じゃないんだから、深く考えないで大丈夫」

 軽く言われ、奈緒は頷いた。
 気になる女子がいるところ。
 音羽という花魁を見てみたい。
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