淡雪
「ちょーっと待った。奈緒さん、まさかお見世に行く気じゃないでしょうね」

 招き屋に向かってふらふら進む奈緒を、薫が慌てて止めた。

「遊女屋なんかに用がある女子は、売られていく子だけよ。大体こんな時刻に行ったって、まだ皆寝てるって」

 言いつつ奈緒を覗き込んだ薫は、ぎょっとした。
 何かに憑かれたような目で、奈緒は招き屋だけを見ている。

「奈緒さん!」

 強く言われ、奈緒は、はっとした。
 同時に、すっと今まで突き上げていた何かが引いていく。

「あ、わ、私……?」

「ちょっと大丈夫? 何か怖かったよ」

 あからさまにほっとしたように、薫が奈緒の肩を叩いた。
 今の感情は何だろうか。
 例えて言うなら、何か黒いものが奈緒の心をじわじわ浸食したような。

「あ、もしかして、音羽のこと、良太郎様から聞いたとか?」

 不意に薫が、明るく言った。

「それで気になっちゃってるんじゃない? 悪所通いなんかに興味なさそうな良太郎様から、まさか花魁の名前が出るなんてって」

「そ、そりゃ気になるわ」

 とりあえず話を合わせると、薫は、やっぱりねー、とあっさり納得した。
 そして、悪戯っ子のような目で奈緒を見る。

「良太郎様も、今を時めく花街一の花魁のことは知ってたのね。さすがにそこまで野暮じゃないか。心配しなくても大丈夫。音羽の人気は凄いもの。殿方のみならず、女子にも人気だし。私も知ってたしね」

「あ、そ、そっか」

「売れっ妓の花魁ともなれば、錦絵とかにもなるし。むしろ知らないほうが珍しいんじゃない?」

 それほどの売れっ妓と、黒坂を結び付けるものは何なのだろう。
 ただ客として出会っただけではなかろう。
 そもそもあのような見世に、浪人が通えるわけがない。
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