淡雪
 きゃんきゃんと小言を言う薫と別れ、奈緒はその足で稲荷神社に向かった。
 すでに夕刻だ。
 境内に人影はない。

 揚羽も黒坂には会えなかったようだし、今日は来ていないのだろう。
 奈緒は本殿の前に立つと、手を思い切り打った。

「音羽花魁に、また会えますように」

 誰もいないのをいいことに、大声でお願いする。
 およそ女子のする願いではない。

 だがあの二人のことを知りたい。
 どう知り合ったのか。
 何故一介の浪人である黒坂に、そこまで花魁が入れ込んでいるのか。

「面白い願いだな」

 いきなり背後から声がした。
 誰もいないと思っていたので、奈緒はその場で飛び上がる。

「ははっ。驚かせたようだな」

 がさがさ、と本殿の裏から姿を現したのは黒坂だ。

「だ、誰もいなかったので、お稲荷さんの声かと思いました」

 奈緒が言うと、黒坂はまた、ははは、と笑った。

「黒坂様は、いつも変なところにいらっしゃるのですね」

「変なところ?」

「向こうの林の中とか、本殿の裏とか。……この前の、舟宿とか」

 後半は、少し意識してしまった。
 だが黒坂は、ああ、と軽く呟いただけで、特に何も言わない。
 別に舟宿に入るのを見られたところで、黒坂にとってはまずくもないのだろうから、気にもしないのかもしれないが。

「あんたも、あんなところふらふらするんだな」

「ふらふらしていたわけではありません。用事があったんですもの。黒坂様こそ、お宿に何の御用だったんです? 取り立てですか?」

「ふっ。小槌屋が相手にすんのは武家だけだぜ。刀に物を言わすのも武士だしな」

 何でもないように言いながら、黒坂は本殿の階に腰を掛けた。
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