淡雪
第九章
 次の日、奈緒は小槌屋の暖簾を潜った。
 店の者も慣れたもので、すぐに奈緒を奥に通す。
 ほどなく金吾がやってきた。

「何やら険しいお顔ですな。あまりよろしくないご報告のようで」

 言いながら、小槌屋が腰を下ろす。

「一つお聞きしたいのですが、黒坂様がわたくしを拒んだ場合は、此度の条件はどうなるのです?」

 いきなり本題に入った奈緒に、小槌屋は少しの間、口を閉ざして奈緒を窺った。

「黒坂様には、心に決めた女子がいるようです。そのようなお方がいるのに、すんなりわたくしを迎えるとも思えません」

「ほぅ? 黒坂様が、そのようなことを仰ったのですか?」

 こく、と奈緒が頷くと、小槌屋は、傍の煙草盆を引き寄せながらため息をついた。

「お気になさらなくてもよろしい。そんなもの、体のいい断り文句ですよ」

「そうでしょうか? そうであっても、妻になろうというわたくしに向かって言うことではないでしょう。本当にそういった方がおられるからこその言葉ですよ。小槌屋さんも仰ったじゃないですか、黒坂様には女子がいるって」

「ええ。でも忘れたのですか? 相手は花魁ですよ。そのような女子に焦がれたところで、一生独り身だ。花街の女子は遊びに留める。どう足掻いても正妻にはなれませんよ」

「小槌屋さんは、黒坂様に出資はしないのですか?」

 ふと思いついて言うと、小槌屋は、少し首を傾げた。

「花魁の身請け代を、黒坂様が借りたい、と仰ったことはないのですか?」

「ありませんよ。大体そんなもの、おいそれと借りられません。いくらすると思ってるんです。まして浪人である黒坂様など、一生かかっても返せない。確実に返ってこないものを貸すほど、手前もお人よしではありません」

 もっともだ。
 小槌屋は、かつんと煙管を煙草盆に打ち付けると、笑顔を奈緒に向けた。

「お嬢様は心配なさらないでも大丈夫。手前がきちんと話をつけて差し上げますよ」

「……黒坂様とよりも、花魁と話をつけて欲しいのですが」

 奈緒の声が低くなる。
 同時に、じわ、と心の沁みが広がった。

「黒坂様に、もう会わないようお伝えください」

 顔を上げた奈緒を、小槌屋は、じっと見た。

「花街に行くようなものですよ。恥ずかしながら、男とはそういうものですよ?」

「でも嫌です」

 きっぱりと言う。
 少し、小槌屋が眉を顰めた。

「……まぁ、その辺のことも考えておきましょう」

 そう言って、小槌屋は、ふ、と息をついた。
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