淡雪
第十三章
 さほど日が開いたわけでもないのに、何か懐かしい。
 それだけここに通い詰めていたんだな、と黒坂は稲荷神社を見回した。

 いつものように、本殿の裏手に回る。
 相変わらず、夕暮れ時は人が少ない。

 どこかに揚羽の手掛かりはないだろうか、と林の中を歩き回ってみたが、特に目を引くものはない。
 ふと、黒坂の目が林の奥のほうに向いた。

 鬱蒼とした暗い森。
 この奥には、誰も近付かない。

---そうだ。初めに会ったとき、あいつを襲った奴らは、この奥のほうに奈緒を連れて行こうとしてたな---

 もっとも林の中に足を踏み入れる前に、黒坂に追い払われたので、実際奥のほうに連れ込まれたわけではないのだが。

---けど、ということは、奥には人が来ないようなところがあるってことになるな---

 揚羽を襲ったときに、それを思い出したのだろうか。
 人の記憶というのは、妙なところで何かを思い出したりするものだ。
 そんなこと、すっかり忘れていた。

 奈緒もそうなのか。
 奥に行こうとしたとき、黒坂の背後で、かさりと音がした。

「奈緒……」

 振り向くと、奈緒が立っている。

「しばらくこちらには来ておられないと思っていましたのに、まだ諦めていないのですか」

「……あんたこそ。聞いてねぇか? あんたの借財は、許嫁の親が持ってくれるってよ。これで俺とあんたの関係もなくなった」

 黒坂が言うと、奈緒は驚いた顔で動きを止めた。

「許嫁の借金も、きちんと返ってきた。よかったな、晴れて元通りだぜ」

 わざと明るく言う黒坂とは反対に、奈緒は顔を強張らせて震えている。

「そ、そんな……。伊田様が……?」

 小さく言い、少し考え込む。
 伊田であれば、それぐらいできそうだ、と思ったのだろう。
 口を引き結んだ後、いきなり奈緒は、ちっ! と舌打ちした。

 顔が一変している。
 整った小町娘の面影はなく、どこか般若のようだ。

 ぞく、と黒坂の背筋を悪寒が走った。
 思わず刀の柄に手がかかる。
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