甘い脅迫生活
あまりにも理不尽で、現実的じゃない誓約書。それなのに優雨は、しっかりとサインしている。
「今すぐそれ、破って。」
何考えてるの?あの人。自分の立場をちゃんと分かってる?私なんかのために会社どころか人生を捨てるなんて。
明らかに、バカげている。
何も言わずに笑っているだけのお母さんを睨みつけた。
「お母さんがやらないなら私が破るから。渡して。」
「ちょ、2人共。喧嘩はだめだぞ?」
こんな時、やたらぽやっとしてるお父さんの声が煩わしくて仕方がない。
睨み合っていると、お母さんがふ、と笑う。
「これは返さないわ。結婚とは貴女に×を付けることになりかねない契約だもの。女の戸籍はこれに見合うほど大事なものよ。」
「……お母さん。」
丁寧に紙を畳んで内ポケットにしまったお母さんは、笑顔で私を抱きしめた。
お母さんの良い香り。久しぶりに嗅いだかもしれない。
細いお母さんの腕。それなのに私を抱きしめる力はとても力強い。
安心する。
「幸せになりなさい。美織。」
「……。」
耳元に響くお母さんの声に、私は素直に答えることができない。
「どんな場所でも、どんなことがあっても、貴女は自分の幸せだけを見て歩きなさい。」
「っっ、」
思わず身体を離して見つめたお母さんの表情は、なんだか寂しそうに見えた。
「うん。」
これには、素直に頷いた。もしかしたらお母さんは、色々感づいているのかもしれない。だけどそれを絶対に言わないのは、私と優雨の結婚に、期待しているのかも。
あの人なら、私を幸せにしてくれるのかもしれないと。
これから起こる波乱に気付くわけもない私は、お母さんに抱きしめられて少しだけ、浮かれていた。