花の名前

4

「…すみません、お騒がせしました…」

 どうしても声が小さくなってしまう。
 だって、キスだよ?…何の罰ゲームなんだってカンジ…
 それでも帰るに帰れなかったのは、顔を出したのが、“彼女”だったからに他ならない。

 まさか、こんなとこで会うなんて―――

「もう大丈夫ですか?」
「はあ、あの、一時的なものなので…」
「そうですか。でも、あまり頻繁に起きるようだと心配ですね?」
 その言葉は、隣に座っていたカズに向けられていた。
 カズは気を失った私を抱き上げて、何処か休ませてもらえる所はないですかと聞いたらしい。
 祭壇に立っていた紳士はこの教会の牧師さんで、受付にいたのはその奥さんだったようだ。教会の裏手に牧師夫婦の居住スペースがあって、そこに運び込まれていた。

「まあ、とりあえず召し上がれ。大したものはありませんけど。」
 目の前に置かれているのは、優しい香りのシチューとサラダに、柔らかそうなロールパンだ。
 部屋にやって来た彼女に昼食に誘われて、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないと言ったら、皆も一緒だし普通の事だからと言われて驚く。
 なんでも、いつも礼拝の後に、軽いお茶会や食事会をするのが普通なんだそうだ。

 けどそれはつまり、さっきのを目撃した人達が揃ってるって事だよね?と思い、やっぱりやめますと言おうとした所へ、中から沢山の人が出てきて取り囲まれた。
「まあまあ、大丈夫?」
「ほら座って、ゆっくりなさい。旦那さんも。」
 手を取る勢いで連れて行かれ、あれよあれよという間にテーブルに座らされていた。やっぱり信仰に篤い人達だからなのか、純粋に心配してくれているのがわかり、ちょっとだけホッとする。

 そこに彼女が、小さな子供を抱っこして入ってきた。

「あら、かなとくん、起きた?」
「はいっ」
 元気よく挨拶をして母親の腕から飛び降りると、牧師夫人の隣に駆けていく。彼女達が席に着くのを見計らって、皆が姿勢を正した。
「では、本日も神に感謝を捧げて、いただきましょう。」
 牧師さんの合図で、食事が始まった。


「まあ、ではご結婚はまだなのね?」
「はい。」
 にこやかに返すカズの太股を抓ってやりたい。
 まだも何も、“無い”でしょ?
 とは言うものの、あんな事のあった後でムキになって否定するのもおかしいだろうか…と、全力否定したい気持ちを必死で堪えながら、彼女へと視線を走らせた。
 彼女は隣に座る男の子の世話をしながら、牧師夫人と楽しそうに会話をしている。その様子を見るにつけても、彼女がここに来るのを当たり前にしている事がわかるけど、じゃあ、旦那さんはどうしたんだろう…?
 じっと見つめていたら、彼女が気が付いて、ニコッと微笑んだ。
「お久しぶりですね。」
 和やかに言われて、そうですね…と返したものの、その後が続かない。
「お知り合いなの?」
 牧師夫人の問いに、彼女が頷いた。
「ええ、“私達の家”を設計して下さったんです。」
「設計?建築をされてらっしゃるの?」
「そうなんです、ホントにお世話になって。」
 それに何て応えて良いのかわからず戸惑っていると、気付いた彼女が苦笑しながら続けた。
「どうぞ、召し上がって下さい。お食事の後で、中をご案内しますから。」
 促されて、ロールパンを手に取ると、彼女が済まなさそうに言った。
「ウチのじゃなくて申し訳ないんですけど…」
 ハッとして顔を上げると、少し寂しそうに微笑みながら、彼女がロールパンを見つめている。
「またすぐ、作れるようになるわよ。」
「…そうですね。」
 何だか泣きそうな顔をしている、と思うのは気のせいだろうか。隣に座ってパンをかじっていた男の子が、無邪気に首を傾げた。
「とーちゃ?」
「ふふ、それは違うのよ。早く食べれると良いわねぇ…ばばちゃも待ち遠しいわ。」
 2人の会話を聞きながら、息を詰めていたようだ。彼女がこっちを向いて、取り繕うように微笑んだ。

「“がん”なんです。…初島さんの言ったとおりでしたね? 元気な人ほど危ないんだって…」



 土地が手に入ったのがきっかけだったという。

 バブル期に行われていた、土地区画整理事業の恩恵を受けたご両親の資金提供を受けて入手した土地に、店舗付住宅を建てたいという話だったけれど、建物までは賄えなかったから、住居部分だけは住宅ローンを組むことにした。

 その際に、保険料が高いと渋るご主人を説得して入ってもらったのが、発売されて間もなかった、がん特約付の団信保険だったのだ。

「うちはがん家系じゃないから大丈夫ですよ。」
「ダメです。今からお子さん生まれるんですよ? 普通の生命保険じゃ、ローンは無くなりませんからね?!」
 幾度となく繰り広げられた攻防戦の末に、がんになったらローンが無くなる…という保険を契約した。この保険は審査が厳しくて、今まで病気1つしたことが無いと言い切っていたからこそ奨めたのだけど、まさかホントにがんになっていたなんて…。

「そういう“時”だったんでしょうね…」
 ポツリと、彼女が呟いた。
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