花の名前
3
およそカズには似合わない古いモトクロスバイクは、叔父さんのものだった、と言っていた。
休日には車体を磨いて、エンジン等の手入れもしていたから、大事にしているのは言われなくてもわかっていたけど、その叔父さんの事については聞いたことが無かった。
「医者をやっていると、どうしても家庭の方が疎かになってしまって…まあ、言い訳ですけどね。」
だから、カズが医者にはならないと言っても、その事自体には両親とも反対しなかったそうだ。やる気の無い人間が病院をやっても、患者の迷惑になるし…と。ドラマなんかとはずい分違う、あっさりとした関係が、らしいと言えばらしい。
カズの母―――美幸さんの弟さんが同居するようになったのは、カズが小学校に上がって直ぐの頃。
美幸さんの家は姉弟が多くて、大学に行くのになかなか手が回らず、美幸さんがご主人に了解を得た上で、援助を兼ねて同居する事になったそうだ。小学生になった息子の為…というのもあったらしく、一回り違う“お兄ちゃん”に、一人っ子だったカズはすっかり懐いて離れなくなったらしい。
「何て言うか、“やんちゃ”なコで…大学よりもバイクに夢中になって、レースなんかにも参加してたんですよ。」
カズもそこに連れていってもらったり、後ろに乗せてもらって遠出したりしていたそうだ。何だか嫌な予感がして、胸がざわめく。こういう話を、カズの知らないところで聞いて良かったんだろうか。
「叔父さん、は…」
「大学卒業前に、事故で亡くなりました。」
まるで天気の話をするように、あっさりと美幸さんが言う。
バイクの為に、夜までバイトをしていて、帰り道で道路を横断していた学生を避け損ねて転倒した―――と。
「打ち所が悪かったと言いますか、いわゆる植物状態になりましてね。脳の損傷が酷くて意識が回復する見込みは殆ど無い、人工呼吸器を付けて辛うじて生きているという…。」
そう言って、美幸さんが微かに口許を歪めた。
「でも1度挿管してしまうと、医者としては、外せなくなるんですよ。」
脳幹という、生命維持の為の器官を動かす場所が、辛うじて生きているから、医学的には、“生きている”。
「和臣は何度も聞きました。トオルさんはホントに目を覚ますのか、と。」
明るくて、行動的で。
ずっと家と学校と塾の間しか知らなかったカズを、色んな場所に連れて行ってくれた。沢山の知らなかった事を教えて、知らなかった世界を見せてくれた。
そのトオルさんはきっと、こんな風に、ただ眠り続けるだけの生を望んだりしない―――2度と、目を開けることも、話す事も出来ないのなら、それは死んでいるのと同じじゃ無いのか、と。
「最初の頃は和臣も、毎日のように病室に行って、話しかけたり、手を摩ったりしていたんですけど、…1年ほど経った頃でしょうか…」
異常を知らせるアラームが鳴って、病室に駆け込むと、酸素を送る為のチューブが外れていた―――
「看護婦が処置をしている時に、当たったのかも知れません。…まあ、あることではあります。」
そう言って、美幸さんは空を見つめたまま口許だけで微笑んだ。3日ほどは保ったんですよ、と。
思わず、目を閉じた。
どうして、カズが医者を目指さなかったのか。
どうして、それを止めなかったのか。
聞かなければ良かった、と思い、同時に、だからなんだろうか、とも思う。会ったばかりの頃、何処か感情が伴わないような、なんともいえない笑顔を浮かべていたのは―――
「―――終わりましたよ。」
看護婦さんの声に、ハッとして顔を上げる。無意識に立ち上がった。
「起きてらっしゃるようですけど。」
そう言われて、開け放たれた扉をしばし見つめる。
カズはどうするだろう?
一緒に帰るか、ここに残るか―――
そっと、腕に触れられて、隣に顔を向けると美幸さんがこちらを見つめていた。微笑んでいたけど、何処か泣きそうな顔をしている。
そう思った瞬間、3日前にも似たような顔を見た事を思い出し、親子だなぁ…と妙に納得して、思わず微笑んだ。
驚いたように目を見開いた美幸さんを置いて、処置室に入る。カズはまだ寝台の上に寝転んだまま、片腕で目元を覆っていた。
「どう?」
声を掛けると、ビクッと体を揺らして、カズがこっちを見た。まだ病院に居ると思ってなかったんだろうか?
全く―――、と肩を竦めずにはいられない。
見くびってるよ、キミたち。まさかお父さんまで、こんな性格してるんじゃないでしょうね?
「まだ熱いね。」
指先で前髪を払いながら額に触れると、カズが問うように見つめてくる瞳に、微笑みを返した。
「帰る?」
カズは一瞬、視線を揺らして、目を閉じた。
「―――帰っていいの?」
「そりゃあ、カズの家でもあるし。」
そう言うと、カズは微かに笑ってから、体を横向きにしながら、肘をついて体を起こす。
機敏とは言い難い動きに、咄嗟に手を差し出すと、腕を取られて抱き寄せられた。
しがみつくように腕を回して、肩に顔を埋めながら、くぐもった声で「帰る…」と言う、カズの体はビックリするほど熱い。
何だか子供みたいだ、と思うと愛しくなって、微かに湿り気を帯びた髪に頰を寄せて、ポンポン、と背中を叩いてやった。
帰ろう―――と言う、言葉の代わりに。
休日には車体を磨いて、エンジン等の手入れもしていたから、大事にしているのは言われなくてもわかっていたけど、その叔父さんの事については聞いたことが無かった。
「医者をやっていると、どうしても家庭の方が疎かになってしまって…まあ、言い訳ですけどね。」
だから、カズが医者にはならないと言っても、その事自体には両親とも反対しなかったそうだ。やる気の無い人間が病院をやっても、患者の迷惑になるし…と。ドラマなんかとはずい分違う、あっさりとした関係が、らしいと言えばらしい。
カズの母―――美幸さんの弟さんが同居するようになったのは、カズが小学校に上がって直ぐの頃。
美幸さんの家は姉弟が多くて、大学に行くのになかなか手が回らず、美幸さんがご主人に了解を得た上で、援助を兼ねて同居する事になったそうだ。小学生になった息子の為…というのもあったらしく、一回り違う“お兄ちゃん”に、一人っ子だったカズはすっかり懐いて離れなくなったらしい。
「何て言うか、“やんちゃ”なコで…大学よりもバイクに夢中になって、レースなんかにも参加してたんですよ。」
カズもそこに連れていってもらったり、後ろに乗せてもらって遠出したりしていたそうだ。何だか嫌な予感がして、胸がざわめく。こういう話を、カズの知らないところで聞いて良かったんだろうか。
「叔父さん、は…」
「大学卒業前に、事故で亡くなりました。」
まるで天気の話をするように、あっさりと美幸さんが言う。
バイクの為に、夜までバイトをしていて、帰り道で道路を横断していた学生を避け損ねて転倒した―――と。
「打ち所が悪かったと言いますか、いわゆる植物状態になりましてね。脳の損傷が酷くて意識が回復する見込みは殆ど無い、人工呼吸器を付けて辛うじて生きているという…。」
そう言って、美幸さんが微かに口許を歪めた。
「でも1度挿管してしまうと、医者としては、外せなくなるんですよ。」
脳幹という、生命維持の為の器官を動かす場所が、辛うじて生きているから、医学的には、“生きている”。
「和臣は何度も聞きました。トオルさんはホントに目を覚ますのか、と。」
明るくて、行動的で。
ずっと家と学校と塾の間しか知らなかったカズを、色んな場所に連れて行ってくれた。沢山の知らなかった事を教えて、知らなかった世界を見せてくれた。
そのトオルさんはきっと、こんな風に、ただ眠り続けるだけの生を望んだりしない―――2度と、目を開けることも、話す事も出来ないのなら、それは死んでいるのと同じじゃ無いのか、と。
「最初の頃は和臣も、毎日のように病室に行って、話しかけたり、手を摩ったりしていたんですけど、…1年ほど経った頃でしょうか…」
異常を知らせるアラームが鳴って、病室に駆け込むと、酸素を送る為のチューブが外れていた―――
「看護婦が処置をしている時に、当たったのかも知れません。…まあ、あることではあります。」
そう言って、美幸さんは空を見つめたまま口許だけで微笑んだ。3日ほどは保ったんですよ、と。
思わず、目を閉じた。
どうして、カズが医者を目指さなかったのか。
どうして、それを止めなかったのか。
聞かなければ良かった、と思い、同時に、だからなんだろうか、とも思う。会ったばかりの頃、何処か感情が伴わないような、なんともいえない笑顔を浮かべていたのは―――
「―――終わりましたよ。」
看護婦さんの声に、ハッとして顔を上げる。無意識に立ち上がった。
「起きてらっしゃるようですけど。」
そう言われて、開け放たれた扉をしばし見つめる。
カズはどうするだろう?
一緒に帰るか、ここに残るか―――
そっと、腕に触れられて、隣に顔を向けると美幸さんがこちらを見つめていた。微笑んでいたけど、何処か泣きそうな顔をしている。
そう思った瞬間、3日前にも似たような顔を見た事を思い出し、親子だなぁ…と妙に納得して、思わず微笑んだ。
驚いたように目を見開いた美幸さんを置いて、処置室に入る。カズはまだ寝台の上に寝転んだまま、片腕で目元を覆っていた。
「どう?」
声を掛けると、ビクッと体を揺らして、カズがこっちを見た。まだ病院に居ると思ってなかったんだろうか?
全く―――、と肩を竦めずにはいられない。
見くびってるよ、キミたち。まさかお父さんまで、こんな性格してるんじゃないでしょうね?
「まだ熱いね。」
指先で前髪を払いながら額に触れると、カズが問うように見つめてくる瞳に、微笑みを返した。
「帰る?」
カズは一瞬、視線を揺らして、目を閉じた。
「―――帰っていいの?」
「そりゃあ、カズの家でもあるし。」
そう言うと、カズは微かに笑ってから、体を横向きにしながら、肘をついて体を起こす。
機敏とは言い難い動きに、咄嗟に手を差し出すと、腕を取られて抱き寄せられた。
しがみつくように腕を回して、肩に顔を埋めながら、くぐもった声で「帰る…」と言う、カズの体はビックリするほど熱い。
何だか子供みたいだ、と思うと愛しくなって、微かに湿り気を帯びた髪に頰を寄せて、ポンポン、と背中を叩いてやった。
帰ろう―――と言う、言葉の代わりに。