花の名前
8
「なんだ、お前…」
そう言って、高橋さんは、口許を歪めた。
「ビョーキとか言って、実は“ワイハ”で彼氏と“シクヨロ”してたんじゃねえの?」
「……」
思わず黙り込んでしまう。
もちろん、誤解があるせいもだけど…。
「お前が休んだせいで、こっちは迷惑被ってんだよ。何ほっつき歩いてんだよ、仕事しろよ。」
「…すみません。」
とりあえず謝る。この人は、迂闊な事を言うと面倒な事になるから、あまり逆らわないのが得策なのだけど、今日はそれでは治まらなさそうだった。
高橋さんがチッ…と舌打ちをして、さらに言い募ろうとした時、「高橋さん」と呼ぶ声が聞こえて、そちらを向く。
「すいません、俺やっぱり一人で帰りますんで…」
言いながらやって来たスーツ姿の男性に、目を見張った。
「あれ、…透子?」
久しぶり、と言って手を上げたのは、大学の同級生だった。
「シノ…? なんで…」
「なんでって、お前…自分とこのやってる工事の元請けも知らねぇのかよ?」
「あー…、ゴメン。」
担当が違うのももちろんだけど、高橋さんには出来るだけ関わらないようにしていたから、そういえば…という位の認識しか無い。
シノ―――こと、篠崎遥は準大手の建設会社(ゼネコン)に就職していた。学生時代、ウチの設計事務所でバイトしていたから、てっきりそのまま就職するんだろうと誰もが思っていたのに。
意匠設計は建築の花形だ。
いわゆる“建築家”と呼ばれるのはこれに従事している人達の事を指す。
デザイナーのようにもてはやされがちだが、実際の業務には工事全体の監理や調整などもあり、かなり面倒な役割を担う。設計したものを実際に造るにあたって、物理的に変更が必要になったりした場合などは、法規的に問題が無いかのチェックとか、構造や設備等との取り合いなど、各方面との話し合いが必要だったりとかで結構大変なのだ―――まあ高名な建築家は周りの人達がやってくれるだろうけど。
ゼミの教授と社長が旧知の仲で、使えるヤツをバイトに寄越してくれ、と言われての推挙だったのにもかかわらず、なまじバイトで設計事務所の実情を知ってしまったシノは、内定を社長直々に打診されたのに、あっさり蹴って鞍替えした。「まあ、設計部門もあるし。」と言って。
代わりに推薦されたのが、“女”の自分だったから、社長は最初かなり気に入らないという態度を憚らなかった。大体が、建築業界はまだ男社会だったし、今年一級建築士に受かって、やっと態度が軟化してきた所だった。
「シノが現場みてんの?」
「いや、俺は営業だから。」
「え…?」
営業―――?
「希望出したら通った。」
お陰で土日祝日しっかり休めていいぜと、にやりと笑う顔に唖然となる。
「あれ、ちょっと待って、シノ、受かってなかったっけ?」
一級建築士の事を持ち出すと、ああ、と頷く。建築士の試験は設計や施工管理等の“実務経験”が無いと、そもそも受験する事が出来ない。建設会社(ゼネコン)勤務とはいえ、営業は建築の実務経験に入ってたっけ…?
「そりゃあ、会社からしてみたら、社内に建築士が何人もいるにこしたこたねぇんだから、何とでもなるさ。」
悪びれる様子も無く肩を竦めるシノに言葉を無くす。つまり、会社と“グル”で嘘の経歴書を提出したって事だろうか…。
シノってこんなヤツだったっけ? 確かに空気を読まないトコはあって、そういうとこも女の子と続かない原因かなとは思っていたけど。
「そういや、シンジは図面で落ちたらしいぜ。来年受かりゃいいけどな。また学科から受けんのバカらしいし。」
「あ…」
しまった、と思った時には遅かった。
ガンッッ―――と、駐車場全体に響くような音を立てて、階段室の扉が叩きつけられた。
コンクリートの建物は、火事の際の延焼を防ぐために、階段室には防火性能のある鋼製の扉をつけてある。
高橋さんが今自分達が立っている通路から出たのだと気付いたと同時に、シノが追いかけるように扉を開けて、
「またメールしときますね!」
と、叫ぶように言った。応える声は聞こえなかったけど、シノはそっと音を立てないように扉を閉めて振り返る。
その顔を見て、一瞬、息を呑んだ。
「…あの人ってさ、まだ、受かってねぇよな。」
言わなくても、名刺交換すりゃわかるっつーの―――そう言ってシノが嗤う。
嘲笑―――というのを、これ程まともに見たのは初めてで、ここにいるのは、ホントにシノなんだろうか?と、信じられない気持ちになる。
確かに建築士を取得すると、直ぐに名刺を作り直すよう社長には言われたけど、そんなとこでチェックが入るとは思わなかった。
「バイトん時からやたらと先輩風吹かしてて、ホント、ウゼぇよな? ふ、しかも、今時、ダブルって。」
鼻を鳴らして嗤うシノが着ているのは、体の線にピッタリと合わせた細い襟のシングルスーツだ。
言われてみれば、ちょっと前まで流行ってた、ゴツい肩パットと太い襟のダブルスーツを着ている人は最近見なくなっていた―――いるとすれば、高橋さんみたいないわゆるバブル世代だろうか。
「良いブランドのスーツだから、着ないと勿体ないからじゃないかな…」
以前飲みの席で脱ぎ捨てた上着をハンガーに掛けた時、自分でも聞いたことのある有名ブランドのタグが付いていたのを思い出し、フォローのつもりで言ったのだけど、シノはさらに可笑しそうに嗤う。
「だろうな、あんだけ長いこと受けてりゃ、金ねえわ。」
建築士は独学ではなかなか受からないと言われている。大体の人が専門の学校に通っているけど、かなりの高額だ―――ブランド品の1つや2つ買える程には。
でも、建築士は合格率が20パーセントを切る難関な上、実務経験が無いと受けられないのだから、皆働きながら頑張って受けているのだ。いわゆる3Kと呼ばれるこの業界で。
自分が受かったからとはいえ、そんな風に嘲笑うなんて―――少なくとも、昔のシノだったらしなかったに違いない。そう思うと、何だか哀しくなって、思わず目を伏せた。
「シノは…変わったね。」
そう言うと、少しの沈黙の後で、シノが微かにため息をついた。
「…お前だって、変わったよ。」
驚いて顔を上げると、いつの間にか直ぐ近くに来ていたシノが、手を伸ばして、指の背で頰に触れた。
ギョッとして咄嗟に身を引くと、そんな逃げんなよ、と、シノが苦笑した。
「なあ、良かったら飲みに行かないか?お互いの合格を祝って―――」
さっきまでの事が嘘のように、フランクに明るくシノが言った、その時。
「トーコさん。」
と言う声に呼ばれ、シノの肩越しにその姿を認めて、思わず駈け寄る。
カズは微かに目を見開いた後で、優しく微笑みながら腰に手を添えてくれた。
「帰ろう。また熱出したらいけないしね。」
うん、と頷いて、振り返った。
シノが、驚愕した顔で、こっちを見ている。
「…え、ソイツ…」
それ以上何か言われる前に、ニコッと微笑んだのはどうしてだろうと、その時は考えもしなかった。
「じゃあね、シノ。」
元気で―――と、心の中で添えてまたカズに向き直り、促されるままに階段室への扉を潜る。
ガシャンと背後の扉が閉まる音に、ほ…と息をついた。
「…大丈夫?」
覗き込んだカズに微笑んで、その肩に頰を寄せた。
大きな手の平が髪を撫でる。
その優しさに、目を閉じて、身を委ねた。
そう言って、高橋さんは、口許を歪めた。
「ビョーキとか言って、実は“ワイハ”で彼氏と“シクヨロ”してたんじゃねえの?」
「……」
思わず黙り込んでしまう。
もちろん、誤解があるせいもだけど…。
「お前が休んだせいで、こっちは迷惑被ってんだよ。何ほっつき歩いてんだよ、仕事しろよ。」
「…すみません。」
とりあえず謝る。この人は、迂闊な事を言うと面倒な事になるから、あまり逆らわないのが得策なのだけど、今日はそれでは治まらなさそうだった。
高橋さんがチッ…と舌打ちをして、さらに言い募ろうとした時、「高橋さん」と呼ぶ声が聞こえて、そちらを向く。
「すいません、俺やっぱり一人で帰りますんで…」
言いながらやって来たスーツ姿の男性に、目を見張った。
「あれ、…透子?」
久しぶり、と言って手を上げたのは、大学の同級生だった。
「シノ…? なんで…」
「なんでって、お前…自分とこのやってる工事の元請けも知らねぇのかよ?」
「あー…、ゴメン。」
担当が違うのももちろんだけど、高橋さんには出来るだけ関わらないようにしていたから、そういえば…という位の認識しか無い。
シノ―――こと、篠崎遥は準大手の建設会社(ゼネコン)に就職していた。学生時代、ウチの設計事務所でバイトしていたから、てっきりそのまま就職するんだろうと誰もが思っていたのに。
意匠設計は建築の花形だ。
いわゆる“建築家”と呼ばれるのはこれに従事している人達の事を指す。
デザイナーのようにもてはやされがちだが、実際の業務には工事全体の監理や調整などもあり、かなり面倒な役割を担う。設計したものを実際に造るにあたって、物理的に変更が必要になったりした場合などは、法規的に問題が無いかのチェックとか、構造や設備等との取り合いなど、各方面との話し合いが必要だったりとかで結構大変なのだ―――まあ高名な建築家は周りの人達がやってくれるだろうけど。
ゼミの教授と社長が旧知の仲で、使えるヤツをバイトに寄越してくれ、と言われての推挙だったのにもかかわらず、なまじバイトで設計事務所の実情を知ってしまったシノは、内定を社長直々に打診されたのに、あっさり蹴って鞍替えした。「まあ、設計部門もあるし。」と言って。
代わりに推薦されたのが、“女”の自分だったから、社長は最初かなり気に入らないという態度を憚らなかった。大体が、建築業界はまだ男社会だったし、今年一級建築士に受かって、やっと態度が軟化してきた所だった。
「シノが現場みてんの?」
「いや、俺は営業だから。」
「え…?」
営業―――?
「希望出したら通った。」
お陰で土日祝日しっかり休めていいぜと、にやりと笑う顔に唖然となる。
「あれ、ちょっと待って、シノ、受かってなかったっけ?」
一級建築士の事を持ち出すと、ああ、と頷く。建築士の試験は設計や施工管理等の“実務経験”が無いと、そもそも受験する事が出来ない。建設会社(ゼネコン)勤務とはいえ、営業は建築の実務経験に入ってたっけ…?
「そりゃあ、会社からしてみたら、社内に建築士が何人もいるにこしたこたねぇんだから、何とでもなるさ。」
悪びれる様子も無く肩を竦めるシノに言葉を無くす。つまり、会社と“グル”で嘘の経歴書を提出したって事だろうか…。
シノってこんなヤツだったっけ? 確かに空気を読まないトコはあって、そういうとこも女の子と続かない原因かなとは思っていたけど。
「そういや、シンジは図面で落ちたらしいぜ。来年受かりゃいいけどな。また学科から受けんのバカらしいし。」
「あ…」
しまった、と思った時には遅かった。
ガンッッ―――と、駐車場全体に響くような音を立てて、階段室の扉が叩きつけられた。
コンクリートの建物は、火事の際の延焼を防ぐために、階段室には防火性能のある鋼製の扉をつけてある。
高橋さんが今自分達が立っている通路から出たのだと気付いたと同時に、シノが追いかけるように扉を開けて、
「またメールしときますね!」
と、叫ぶように言った。応える声は聞こえなかったけど、シノはそっと音を立てないように扉を閉めて振り返る。
その顔を見て、一瞬、息を呑んだ。
「…あの人ってさ、まだ、受かってねぇよな。」
言わなくても、名刺交換すりゃわかるっつーの―――そう言ってシノが嗤う。
嘲笑―――というのを、これ程まともに見たのは初めてで、ここにいるのは、ホントにシノなんだろうか?と、信じられない気持ちになる。
確かに建築士を取得すると、直ぐに名刺を作り直すよう社長には言われたけど、そんなとこでチェックが入るとは思わなかった。
「バイトん時からやたらと先輩風吹かしてて、ホント、ウゼぇよな? ふ、しかも、今時、ダブルって。」
鼻を鳴らして嗤うシノが着ているのは、体の線にピッタリと合わせた細い襟のシングルスーツだ。
言われてみれば、ちょっと前まで流行ってた、ゴツい肩パットと太い襟のダブルスーツを着ている人は最近見なくなっていた―――いるとすれば、高橋さんみたいないわゆるバブル世代だろうか。
「良いブランドのスーツだから、着ないと勿体ないからじゃないかな…」
以前飲みの席で脱ぎ捨てた上着をハンガーに掛けた時、自分でも聞いたことのある有名ブランドのタグが付いていたのを思い出し、フォローのつもりで言ったのだけど、シノはさらに可笑しそうに嗤う。
「だろうな、あんだけ長いこと受けてりゃ、金ねえわ。」
建築士は独学ではなかなか受からないと言われている。大体の人が専門の学校に通っているけど、かなりの高額だ―――ブランド品の1つや2つ買える程には。
でも、建築士は合格率が20パーセントを切る難関な上、実務経験が無いと受けられないのだから、皆働きながら頑張って受けているのだ。いわゆる3Kと呼ばれるこの業界で。
自分が受かったからとはいえ、そんな風に嘲笑うなんて―――少なくとも、昔のシノだったらしなかったに違いない。そう思うと、何だか哀しくなって、思わず目を伏せた。
「シノは…変わったね。」
そう言うと、少しの沈黙の後で、シノが微かにため息をついた。
「…お前だって、変わったよ。」
驚いて顔を上げると、いつの間にか直ぐ近くに来ていたシノが、手を伸ばして、指の背で頰に触れた。
ギョッとして咄嗟に身を引くと、そんな逃げんなよ、と、シノが苦笑した。
「なあ、良かったら飲みに行かないか?お互いの合格を祝って―――」
さっきまでの事が嘘のように、フランクに明るくシノが言った、その時。
「トーコさん。」
と言う声に呼ばれ、シノの肩越しにその姿を認めて、思わず駈け寄る。
カズは微かに目を見開いた後で、優しく微笑みながら腰に手を添えてくれた。
「帰ろう。また熱出したらいけないしね。」
うん、と頷いて、振り返った。
シノが、驚愕した顔で、こっちを見ている。
「…え、ソイツ…」
それ以上何か言われる前に、ニコッと微笑んだのはどうしてだろうと、その時は考えもしなかった。
「じゃあね、シノ。」
元気で―――と、心の中で添えてまたカズに向き直り、促されるままに階段室への扉を潜る。
ガシャンと背後の扉が閉まる音に、ほ…と息をついた。
「…大丈夫?」
覗き込んだカズに微笑んで、その肩に頰を寄せた。
大きな手の平が髪を撫でる。
その優しさに、目を閉じて、身を委ねた。