花の名前
2
シノが指定してきたのは、高級グランドホテルの最上階にあるラウンジだった。
大きな窓から見事な夜景の見えるフロアは、ダウンライトで仄暗く、落ち着いた雰囲気を醸し出している。ランダムに配置されたソファ席では、老若男女様々な客が寛いでいた。
上質な時間と場を提供する場所なのだな…と思いながら、不自然に見えない程度に視線を巡らす。
正直、こんな所に来たのは初めてで、しかもパンツスーツとはいえ仕事着なので安物だし、パンプスも色気のないローヒールだから、場違いなこと甚だしい。
それでも、ホテルの案件が入った時の参考になるかと思って観察せずにいられないのは、いわゆる職業病というヤツだ。
ホールスタッフに、少し奥まった場所にあるソファ席へ案内されて行くと、シノはもう来て一杯始めている所だった。オレンジジュースを頼んで席に着く。
「…飲まないのか?」
「うん、後で事務所帰って、もう少しやろうと思ってるから。」
そう言うと、シノは手に持っていたお猪口よりも少し大きいショットグラスの中身を、少しだけ口に含んでからテーブルに置いた。
粗塩の皿とライム―――飲んでいるのはウォッカだろうか。かなり度数の高い蒸留酒(スピリッツ)である事だけは間違いない。
シノはいわゆる、“ザル”だ。
飲んでも飲んでも顔色1つ変えない。大学の頃、お母さんが高知出身だからだと笑いながら言っていた。
―――“べく杯”っつってな、底に開いてる穴を塞ぎながら飲むんだ。飲まないと置けないから飲み切るだろ?そしたらすぐ注がれる、飲む、注がれるって、そりゃあ強くもなるわな。
飲み会では最後まで残って、飲み潰れた仲間を介抱したりしていた。
「お前はこれだけ飲んでろ。」
と言って、酎ハイを寄越し、しかも2杯で烏龍茶に強制変更されていたのは、一人で全員の世話はしてらんねぇから―――という理由だったけれど。
「…何だよ?」
高級ホテルなだけに、上等な布張りのソファはどっしりと風格があり、座り心地も抜群だ。その肘掛けに腕を乗せて、長い足を無造作に組んでいる姿は、何処か物憂げで、それがやけに様になっている。
「こういうとこ、よく来るの?」
運ばれてきたオレンジジュースを一口飲んで聞いてみた。ウイスキーのロックみたいに、綺麗な丸にカットされた氷が浮かんでいる―――フレッシュジュースなんだろうか。美味しいけど、これ、1杯いくらするんだろう…。
「まぁ、それなりにな…商談とか、色々。」
どうでもよさ気に言ってるけど、色々―――は、要するに女の子と来てるって事なんだろうな、とあたりに視線を走らせながら思う。顔を近くに寄せながら話している男女が結構いたのだ。やっぱり相変わらずだと、こっそり肩を竦める。別にいいけど。
「それより、話―――」
「体はもう良いのか?」
遮るように言われて、思わず目を見開く。インフルエンザだったんだろ?と続けて言われて驚いた。なんで知ってるんだろう。
「事務所に行ったからな…まあ、昔の誼で。」
シノの会社にも設計部門はあるけど、全部やってる訳じゃ無いから、設計事務所にも顔を出すらしい。それにしては、4年間一度も来なかったけど。タイミングなんだろうか。
「お前居なかったし、社長に挨拶だけして帰ろうと思ったら、“アイツ”が追いかけてきて言ったんだよ、良い案件があるってな。」
手一杯で持て余してる―――と言ってはいたが、それなら社長から言ってくるだろうと不審に思ったらしい。
「っ、それならどうして?!」
「俺が断れば、他に持ってかれるだけだろ? そうなりゃ、完全に手出し出来なくなるんじゃねのか?」
「あ―――」
言われてハッとした。確かにその通りだ。相手がシノだから、話をしに来る事が出来たのだ。
まさか、それで?
シノは何も言わずに視線を落とす。大学の頃を思い出して、何だか嬉しくなった。
良かった―――シノだ、間違いなく、ここにいるのは。
「…良かった…」
思わず声に出して言うと、シノが訝しげに眉を顰める。そういうところも変わってない。不言実行、しかも褒められるとイヤな顔をするのだ。別に…と言って。
「何がおかしいんだよ?」
「ん?うん、シノがシノで良かったと思って。あんな悪口言うの、らしくないからビックリしたよ。」
そう言うと、シノが微かに目を見開いた。バイトしてる時に何かあったんだろうか?―――そう聞こうとした時だった。
ブルルル―――とテーブルの上に置いていた携帯が振動した。
画面に“カズ”と表示されているのを見て、慌てて手に取る。
昼に1回電話していたから、心配してくれているのかもしれない―――そう思って、ゴメンね、とシノに断りを入れてから、体を背けて通話ボタンを押した。
「―――もしもし?」
『トーコさん?…大丈夫?』
やっぱり…思わずクスッと笑った。大丈夫だよ、心配性だなぁと。
「今日は遅くなると思うよ。この後また会社に戻るから。」
『無理しちゃダメだよ。まだ体力無いんだから。』
ぷっ…と笑ってしまった。体力って、―――カズが言う?
昨夜も、ねぇ?
「机に座ってるだけなんだから、大丈夫だよ。先に寝てて。」
言い聞かせて電話を切る。向き直るのと、シノがグラスを空けるのが同時だった。
「―――同居人がいるって、八木とかいうのが言ってたけど。」
「あー、うん…」
「昨日の、ヤツか。」
友達に言うのはちょっと恥ずかしいなと思いながら、うん、と肯定すると、自分から聞いておいて、どうでも良さそうな顔で鼻を鳴らした。
まあ、確かに、今でも自分が誰かと…何て、自分でも不思議な気分になるぐらいだ。大学の頃から知ってるシノからすると、よくそういうヤツが見つかったなと思っても無理はない。
「それで、さっきの続きだけど。」
「あ、うん。」
何となく居住まいを正した所で、シノが静かに言った。
「もう契約済んでるから、そっちに戻すのは無理だ。」
―――え?
一瞬、言葉を失った。…どういう事だろう。
「お前の選択肢は、2つ。」
返事を待たずに続けた。
「すっぱり諦めるか、―――事務所を辞めて、ウチに来るか。」
シノはソファに浅く腰掛け、肘を腿の上に置いて前屈みになった姿勢で、上目遣いにこっちを見ている。―――冗談を言っている顔じゃない。そう、気が付いて。
「―――っっ、んなっ、出来るわけないじゃんっっ!!」
やっとの思いで叫んだ言葉に、シノが肩を竦めて立ち上がった。
「交渉決裂だな。」
言い捨てたシノが、上着を肩に掛けて踵を返す。慌てて自分のグラスを掴んで呷った。こんな時なのに、もったいない精神が働いて。
ゴクゴクッッ―――と、飲んだ、次の瞬間、喉から胸に掛けて、まるで熱湯を飲んだような痛みに襲われ、かはっと咽せた。思わず口許を押さえて見上げると、シノはチラリと冷たい視線を向けただけで、直ぐに背中を向けて歩き出す。
まさか、と思った。こっちを足止めする為に―――?
咄嗟にコートと鞄を掴んで立ち上がり、足早にシノの背中を追いかけた。
待って―――と、叫んだつもりだった。
あと少し、背中に手が届くと思った瞬間、かくり、と膝が折れる。
振り向いた、シノの。
冷たい顔を見たのが最後だった。
大きな窓から見事な夜景の見えるフロアは、ダウンライトで仄暗く、落ち着いた雰囲気を醸し出している。ランダムに配置されたソファ席では、老若男女様々な客が寛いでいた。
上質な時間と場を提供する場所なのだな…と思いながら、不自然に見えない程度に視線を巡らす。
正直、こんな所に来たのは初めてで、しかもパンツスーツとはいえ仕事着なので安物だし、パンプスも色気のないローヒールだから、場違いなこと甚だしい。
それでも、ホテルの案件が入った時の参考になるかと思って観察せずにいられないのは、いわゆる職業病というヤツだ。
ホールスタッフに、少し奥まった場所にあるソファ席へ案内されて行くと、シノはもう来て一杯始めている所だった。オレンジジュースを頼んで席に着く。
「…飲まないのか?」
「うん、後で事務所帰って、もう少しやろうと思ってるから。」
そう言うと、シノは手に持っていたお猪口よりも少し大きいショットグラスの中身を、少しだけ口に含んでからテーブルに置いた。
粗塩の皿とライム―――飲んでいるのはウォッカだろうか。かなり度数の高い蒸留酒(スピリッツ)である事だけは間違いない。
シノはいわゆる、“ザル”だ。
飲んでも飲んでも顔色1つ変えない。大学の頃、お母さんが高知出身だからだと笑いながら言っていた。
―――“べく杯”っつってな、底に開いてる穴を塞ぎながら飲むんだ。飲まないと置けないから飲み切るだろ?そしたらすぐ注がれる、飲む、注がれるって、そりゃあ強くもなるわな。
飲み会では最後まで残って、飲み潰れた仲間を介抱したりしていた。
「お前はこれだけ飲んでろ。」
と言って、酎ハイを寄越し、しかも2杯で烏龍茶に強制変更されていたのは、一人で全員の世話はしてらんねぇから―――という理由だったけれど。
「…何だよ?」
高級ホテルなだけに、上等な布張りのソファはどっしりと風格があり、座り心地も抜群だ。その肘掛けに腕を乗せて、長い足を無造作に組んでいる姿は、何処か物憂げで、それがやけに様になっている。
「こういうとこ、よく来るの?」
運ばれてきたオレンジジュースを一口飲んで聞いてみた。ウイスキーのロックみたいに、綺麗な丸にカットされた氷が浮かんでいる―――フレッシュジュースなんだろうか。美味しいけど、これ、1杯いくらするんだろう…。
「まぁ、それなりにな…商談とか、色々。」
どうでもよさ気に言ってるけど、色々―――は、要するに女の子と来てるって事なんだろうな、とあたりに視線を走らせながら思う。顔を近くに寄せながら話している男女が結構いたのだ。やっぱり相変わらずだと、こっそり肩を竦める。別にいいけど。
「それより、話―――」
「体はもう良いのか?」
遮るように言われて、思わず目を見開く。インフルエンザだったんだろ?と続けて言われて驚いた。なんで知ってるんだろう。
「事務所に行ったからな…まあ、昔の誼で。」
シノの会社にも設計部門はあるけど、全部やってる訳じゃ無いから、設計事務所にも顔を出すらしい。それにしては、4年間一度も来なかったけど。タイミングなんだろうか。
「お前居なかったし、社長に挨拶だけして帰ろうと思ったら、“アイツ”が追いかけてきて言ったんだよ、良い案件があるってな。」
手一杯で持て余してる―――と言ってはいたが、それなら社長から言ってくるだろうと不審に思ったらしい。
「っ、それならどうして?!」
「俺が断れば、他に持ってかれるだけだろ? そうなりゃ、完全に手出し出来なくなるんじゃねのか?」
「あ―――」
言われてハッとした。確かにその通りだ。相手がシノだから、話をしに来る事が出来たのだ。
まさか、それで?
シノは何も言わずに視線を落とす。大学の頃を思い出して、何だか嬉しくなった。
良かった―――シノだ、間違いなく、ここにいるのは。
「…良かった…」
思わず声に出して言うと、シノが訝しげに眉を顰める。そういうところも変わってない。不言実行、しかも褒められるとイヤな顔をするのだ。別に…と言って。
「何がおかしいんだよ?」
「ん?うん、シノがシノで良かったと思って。あんな悪口言うの、らしくないからビックリしたよ。」
そう言うと、シノが微かに目を見開いた。バイトしてる時に何かあったんだろうか?―――そう聞こうとした時だった。
ブルルル―――とテーブルの上に置いていた携帯が振動した。
画面に“カズ”と表示されているのを見て、慌てて手に取る。
昼に1回電話していたから、心配してくれているのかもしれない―――そう思って、ゴメンね、とシノに断りを入れてから、体を背けて通話ボタンを押した。
「―――もしもし?」
『トーコさん?…大丈夫?』
やっぱり…思わずクスッと笑った。大丈夫だよ、心配性だなぁと。
「今日は遅くなると思うよ。この後また会社に戻るから。」
『無理しちゃダメだよ。まだ体力無いんだから。』
ぷっ…と笑ってしまった。体力って、―――カズが言う?
昨夜も、ねぇ?
「机に座ってるだけなんだから、大丈夫だよ。先に寝てて。」
言い聞かせて電話を切る。向き直るのと、シノがグラスを空けるのが同時だった。
「―――同居人がいるって、八木とかいうのが言ってたけど。」
「あー、うん…」
「昨日の、ヤツか。」
友達に言うのはちょっと恥ずかしいなと思いながら、うん、と肯定すると、自分から聞いておいて、どうでも良さそうな顔で鼻を鳴らした。
まあ、確かに、今でも自分が誰かと…何て、自分でも不思議な気分になるぐらいだ。大学の頃から知ってるシノからすると、よくそういうヤツが見つかったなと思っても無理はない。
「それで、さっきの続きだけど。」
「あ、うん。」
何となく居住まいを正した所で、シノが静かに言った。
「もう契約済んでるから、そっちに戻すのは無理だ。」
―――え?
一瞬、言葉を失った。…どういう事だろう。
「お前の選択肢は、2つ。」
返事を待たずに続けた。
「すっぱり諦めるか、―――事務所を辞めて、ウチに来るか。」
シノはソファに浅く腰掛け、肘を腿の上に置いて前屈みになった姿勢で、上目遣いにこっちを見ている。―――冗談を言っている顔じゃない。そう、気が付いて。
「―――っっ、んなっ、出来るわけないじゃんっっ!!」
やっとの思いで叫んだ言葉に、シノが肩を竦めて立ち上がった。
「交渉決裂だな。」
言い捨てたシノが、上着を肩に掛けて踵を返す。慌てて自分のグラスを掴んで呷った。こんな時なのに、もったいない精神が働いて。
ゴクゴクッッ―――と、飲んだ、次の瞬間、喉から胸に掛けて、まるで熱湯を飲んだような痛みに襲われ、かはっと咽せた。思わず口許を押さえて見上げると、シノはチラリと冷たい視線を向けただけで、直ぐに背中を向けて歩き出す。
まさか、と思った。こっちを足止めする為に―――?
咄嗟にコートと鞄を掴んで立ち上がり、足早にシノの背中を追いかけた。
待って―――と、叫んだつもりだった。
あと少し、背中に手が届くと思った瞬間、かくり、と膝が折れる。
振り向いた、シノの。
冷たい顔を見たのが最後だった。