花の名前
3
いわゆる、“なぜなに坊や”だった、と思う。
さすがにどっかの発明家のように小屋を燃やすなんて暴挙はしなかったけれど、両親がフルカラーの図鑑セットを買い与える程には困らせていたのかもしれない。
そのおかげ(?)で、小学校の時、蜘蛛を昆虫だと言ったクラスメートの女の子に、
「昆虫っていうのは、頭と胸と胴の3つにわかれて、胸から6本の足と4枚の羽が出てるのを言うから、そもそも足が8本ある蜘蛛は昆虫じゃないよ。」
と言って、思いっ切りドン引きされた事がある。
カズに言われるまでもなく、自分が“変わっている”自覚はあったのだ。
少なくとも、一般的な“女子”の定義から外れている、という事ぐらいは知っていた。
なのにどうしてなんだろう。
女らしい振る舞いをするでも無く、男と同じだけの仕事をしているつもりなのに。
生物学的に女であるという、ただそれだけでしかない事実から、逃れることが出来ないなんて。
「これで、宜しいですか?」
と聞かれて、我に返った。
目の前で、書類にサインをした牧師先生が、穏やかに微笑んでいる。慌てて、笑顔を取り繕った。
「はい―――大丈夫です。…後、こちらのリストなんですけど。」
そう言って、FAXで送り返されたリストをクリアファイルから取り出し、机の上に置く。
それは現在敷地内に生えている、庭木のリストだった。
現地立て替えをする場合、記念樹等、特別なものを除いては、現状生えている植物は全て撤去、廃棄処分するのが普通だ。
元々生えているものを移植しても、枯れない保証は無いし、工事期間中どこかで保管してもらわないといけない為、新しく植える方がコストを抑えられるからだ。
そこでひとまずリストにして、要るものに丸を付けて送り返してもらったのだけれど、これが予想以上に多かった。
「すみません、出来れば、この半分位に落としていただけますか?」
「おや、そうですか…残念ですね。」
言いながらも、それ程がっかりしている様子が無い事にホッとする。
実を言うと、ここの庭木には、明確な意味での記念樹という物が無かったから、移植する事自体に、社長が難色を示していた。
それを何とか了承にこぎ着けたのは、たまたまこの間電話をしたシンジ君の実家が、造園業だったのを思い出したからだ。
「えぇ~、しょうがないなぁ…」
と言って、お友達価格で引き受けてくれたシンジ君は、大学の頃と変わらない明るい口調だったけれど、どこか物問いた気に見つめながらも、それ以上は何も聞かずにいてくれた。
一応、お父さんになるだけの事はある、のかもしれない。
「色々と手配もあるので、今週中にお返事いただけると助かります。」
それだけ言うと、席を立った。
廊下に出ると、ずいぶんと薄暗くなっていた。
等間隔に配置されたはめ殺し窓が、くり抜かれたように浮き上がっている。換気用に上部が突き出し窓になっていて、開いていても寒く感じないのは、もう3月だからだろうか。
「暗くてすみませんね、もうあと少しだからと、家内が…」
「いえ…」
苦笑しながら礼拝堂の入り口隣を歩いていると、ふ…と、甘い香りが鼻先を掠め、思わず立ち止まった。
おや…と、隣を歩いていた牧師先生も立ち止まる。
「まだ香りますか。“闇はあやなし”ですね。」
そう言って、ふふ、と微笑んだ。
―――宜しかったら、見ていかれませんか?
そう言われて、促されるままに建物の裏手に回ると、丁度礼拝堂の近くが少し広くなっていて、ブロック塀沿いに、なかなか良い枝振りの木が植わっていた。
所々の枝に残った黄色い小さな花から、微かな香りがする。
「“ロウバイ”と言いましてね、冬の寒い時期に良い香りを楽しませてくれるんですよ。」
ろうそくの“蝋”に“梅”で蝋梅と書くけれど、梅とは全く品種が違うのだと言いながら、愛おしげに木の幹を撫でる。
この教会は、戦後間もなく、荒廃した土地に寄付を募って建てられたと聞いていた。この木もその時に植えられたのだろうか。
「いいえ、この木は元々ここにあったそうですよ。戦火の中、幹だけ焼け残っていたのが、春になって芽吹いたのを見て、そのまま残したのだとか。」
「そんな事があるんですか…」
「不思議ですよね、辺り一面、焼け野原だったというのに。」
この辺りでも、沢山の方が亡くなられたそうです、と牧師先生は、どこか遠くを見つめながら言った。
「人の五感の中でも、嗅覚というものは、不思議と心を揺さぶり、記憶を呼び覚ますものです。だからかもしれませんね…なくしたものを、偲ぶよすがに、と。」
花ぞ昔の香ににほひおいける―――
牧師先生はそう呟くと、にっこりと微笑んだ。
既視感に、目を見開く。
「この木は、丸にしておきますね。」
「あ、は、はい…」
と、何とか返事を返す。動揺を押し隠すようにコクリと飲み込んで、誤魔化すように花を見つめた。
「…今のは…、和歌、ですか…?」
「ええ、そうです、百人一首の。詠まれていたのは梅ですけどね。」
お詳しいんですね…と呟くように言うと、ふふ、と牧師先生がまた微笑んだ。
「定年までは、高校で国語教師をしておりましたもので。」
ドクン―――と、心臓が音を立てた。
思わず目を閉じて、息を吸い込むと、また甘い香りがする。
もう、1ヶ月経つのに…。
夢でまで図面を描くほど仕事に没頭していれば、何も考えずに済んでいた。だから、大丈夫だと、思っていたのに。
目を開けて、目の前の花を、睨み付けるように見つめた。
―――瞬きをするのが怖くて。
「宜しかったら、一枝、差し上げましょうか?」
「えっ…?」
「ほら、この辺りとか、まだ花が付いている。」
「あ、すみません、そういうつもりじゃ…」
「どなたか、お見せしたい方がいらっしゃれば―――ですが。」
思わず、見つめ返した。
牧師先生がまた、微笑む。
「この良さを解って下さる方には、お譲りしているんですよ。」
色をも香をも、知る人ぞ知る―――
謎かけのように呟いて、牧師先生は笑みを深めた。
さすがにどっかの発明家のように小屋を燃やすなんて暴挙はしなかったけれど、両親がフルカラーの図鑑セットを買い与える程には困らせていたのかもしれない。
そのおかげ(?)で、小学校の時、蜘蛛を昆虫だと言ったクラスメートの女の子に、
「昆虫っていうのは、頭と胸と胴の3つにわかれて、胸から6本の足と4枚の羽が出てるのを言うから、そもそも足が8本ある蜘蛛は昆虫じゃないよ。」
と言って、思いっ切りドン引きされた事がある。
カズに言われるまでもなく、自分が“変わっている”自覚はあったのだ。
少なくとも、一般的な“女子”の定義から外れている、という事ぐらいは知っていた。
なのにどうしてなんだろう。
女らしい振る舞いをするでも無く、男と同じだけの仕事をしているつもりなのに。
生物学的に女であるという、ただそれだけでしかない事実から、逃れることが出来ないなんて。
「これで、宜しいですか?」
と聞かれて、我に返った。
目の前で、書類にサインをした牧師先生が、穏やかに微笑んでいる。慌てて、笑顔を取り繕った。
「はい―――大丈夫です。…後、こちらのリストなんですけど。」
そう言って、FAXで送り返されたリストをクリアファイルから取り出し、机の上に置く。
それは現在敷地内に生えている、庭木のリストだった。
現地立て替えをする場合、記念樹等、特別なものを除いては、現状生えている植物は全て撤去、廃棄処分するのが普通だ。
元々生えているものを移植しても、枯れない保証は無いし、工事期間中どこかで保管してもらわないといけない為、新しく植える方がコストを抑えられるからだ。
そこでひとまずリストにして、要るものに丸を付けて送り返してもらったのだけれど、これが予想以上に多かった。
「すみません、出来れば、この半分位に落としていただけますか?」
「おや、そうですか…残念ですね。」
言いながらも、それ程がっかりしている様子が無い事にホッとする。
実を言うと、ここの庭木には、明確な意味での記念樹という物が無かったから、移植する事自体に、社長が難色を示していた。
それを何とか了承にこぎ着けたのは、たまたまこの間電話をしたシンジ君の実家が、造園業だったのを思い出したからだ。
「えぇ~、しょうがないなぁ…」
と言って、お友達価格で引き受けてくれたシンジ君は、大学の頃と変わらない明るい口調だったけれど、どこか物問いた気に見つめながらも、それ以上は何も聞かずにいてくれた。
一応、お父さんになるだけの事はある、のかもしれない。
「色々と手配もあるので、今週中にお返事いただけると助かります。」
それだけ言うと、席を立った。
廊下に出ると、ずいぶんと薄暗くなっていた。
等間隔に配置されたはめ殺し窓が、くり抜かれたように浮き上がっている。換気用に上部が突き出し窓になっていて、開いていても寒く感じないのは、もう3月だからだろうか。
「暗くてすみませんね、もうあと少しだからと、家内が…」
「いえ…」
苦笑しながら礼拝堂の入り口隣を歩いていると、ふ…と、甘い香りが鼻先を掠め、思わず立ち止まった。
おや…と、隣を歩いていた牧師先生も立ち止まる。
「まだ香りますか。“闇はあやなし”ですね。」
そう言って、ふふ、と微笑んだ。
―――宜しかったら、見ていかれませんか?
そう言われて、促されるままに建物の裏手に回ると、丁度礼拝堂の近くが少し広くなっていて、ブロック塀沿いに、なかなか良い枝振りの木が植わっていた。
所々の枝に残った黄色い小さな花から、微かな香りがする。
「“ロウバイ”と言いましてね、冬の寒い時期に良い香りを楽しませてくれるんですよ。」
ろうそくの“蝋”に“梅”で蝋梅と書くけれど、梅とは全く品種が違うのだと言いながら、愛おしげに木の幹を撫でる。
この教会は、戦後間もなく、荒廃した土地に寄付を募って建てられたと聞いていた。この木もその時に植えられたのだろうか。
「いいえ、この木は元々ここにあったそうですよ。戦火の中、幹だけ焼け残っていたのが、春になって芽吹いたのを見て、そのまま残したのだとか。」
「そんな事があるんですか…」
「不思議ですよね、辺り一面、焼け野原だったというのに。」
この辺りでも、沢山の方が亡くなられたそうです、と牧師先生は、どこか遠くを見つめながら言った。
「人の五感の中でも、嗅覚というものは、不思議と心を揺さぶり、記憶を呼び覚ますものです。だからかもしれませんね…なくしたものを、偲ぶよすがに、と。」
花ぞ昔の香ににほひおいける―――
牧師先生はそう呟くと、にっこりと微笑んだ。
既視感に、目を見開く。
「この木は、丸にしておきますね。」
「あ、は、はい…」
と、何とか返事を返す。動揺を押し隠すようにコクリと飲み込んで、誤魔化すように花を見つめた。
「…今のは…、和歌、ですか…?」
「ええ、そうです、百人一首の。詠まれていたのは梅ですけどね。」
お詳しいんですね…と呟くように言うと、ふふ、と牧師先生がまた微笑んだ。
「定年までは、高校で国語教師をしておりましたもので。」
ドクン―――と、心臓が音を立てた。
思わず目を閉じて、息を吸い込むと、また甘い香りがする。
もう、1ヶ月経つのに…。
夢でまで図面を描くほど仕事に没頭していれば、何も考えずに済んでいた。だから、大丈夫だと、思っていたのに。
目を開けて、目の前の花を、睨み付けるように見つめた。
―――瞬きをするのが怖くて。
「宜しかったら、一枝、差し上げましょうか?」
「えっ…?」
「ほら、この辺りとか、まだ花が付いている。」
「あ、すみません、そういうつもりじゃ…」
「どなたか、お見せしたい方がいらっしゃれば―――ですが。」
思わず、見つめ返した。
牧師先生がまた、微笑む。
「この良さを解って下さる方には、お譲りしているんですよ。」
色をも香をも、知る人ぞ知る―――
謎かけのように呟いて、牧師先生は笑みを深めた。