花の名前
2
新しい案件は、教会とその中にある幼稚園だった。
何社かで競合しているので、社内でもコンペをする事になり、それで現地に行ってみようと思ったのが、そもそものきっかけだった。
「調べてみたら、日曜日に礼拝があってね、結構自由に参加出来るみたいなんだ。」
そう言いながら、メットをカズに返す。
もうすっかり乗り降りにも慣れちゃってる自分がこわい。
古びた外観のコンクリート打ち放しの壁には、かなり大きなクラックが入っていて、なるほどこれは早急に建て替えをする必要があるようだ。
幼稚園が入っているなら尚更。
カズと連れ立って中に入ると、ずいぶんと寒い。エアコンがあるようだけど、それでは足りないのか、ロビーにファンヒーターが幾つか置かれている。大きな窓がある割に寒々とした印象なのは、床のタイルがグレーなせいもあるだろう。
色を変えるだけで、体感温度が少しは変わるものだし、この辺も意識しておこうと思う。
礼拝堂の外に設けられたカウンターが受付のようで、品の良さそうな白髪のご婦人が座っている。
初めてである事と、信者では無い事を告げた後、渡されたアンケート用紙のようなものに、名前と大まかな住所を書いて渡した。
「こちらの冊子に、今日の朗読箇所と、賛美歌の番号が振ってありますので、参考になさって下さい。」
歌えなくても構いませんから…と和やかに言われて、意を決する。
「あの、礼拝の後で、なんですけど…」
「はい?」
「こちらの施設を、ちょっと、見学させて頂く事は出来ますでしょうか?」
「…見学、ですか?」
ご婦人は一瞬戸惑ったような顔をした後、ああ!と合点がいったという顔になって、ニッコリと微笑んだ。
「ご結婚のご予定が?」
「へっ?!」
思いもよらない言葉に、ヘンな声を上げてしまう。
ケッコンって、結婚?! 誰と誰が?!
「ぃいえっ、あのっっ」
「信者で無くても、式を挙げさせてもらえるんですか?」
何を思ったのか、カズが横に並んで婦人に話しかける。
「ええ、もちろんですよ。何回か勉強会に参加して頂く事になりますけど。」
「勉強会、というのは?」
「主に結婚の心構えについてですね。やはり結婚というのは人生の中でも重要な儀式ですから。」
そうそう、と婦人が穏やかに微笑んで続ける。
「洗礼を受けて頂く必要は無いんですよ。私達にとって、お二人の晴れの門出をお手伝いさせて頂ければ、これ以上の幸いはございませんので。」
「手伝いをする事が幸いになるんですか?」
「ええ、もちろん。」
カズの続けざまの質問に、婦人の笑顔が更に深まる。
「人の喜びを自分の喜びとすることで、喜びが倍になり、人の苦しみを自分の苦しみとすることで、苦難を分かち合える。それが、人生の様々な試練を乗り越えていく為の糧となるのです。これは、キリストの教えに限らず、これから人生を共にしていくお二人には必要な心構えですよね?」
だから、教会だと構えずにお越し下さいな、と言われ、思わず納得した所で我に返る。
「いえ、あの…」
結婚しに来たんじゃないんです―――という抗議の声を上げるより早く、礼拝堂の中から、沢山の音が重なり合ったような音が鳴り響いた。
「ああ、始まりますね。これを持ってあちらからお入り下さい。」
聖書と賛美歌を渡され、ありがとうございます、と勝手にカズが話を切り上げた。
「ちょっと!」
どういうつもり?!と睨み付けると、まあまあと宥めるように言いながら、いつものように微笑む。
「あの様子なら、後できっと、色々案内してもらえるよ?良かったね?」
まるで自分の手柄のように言うから憎らしい―――そう思ってるのを隠しもしてないのに、カズはどこ吹く風で、行こうと背中に手を回してくる。
妙に慣れてるその仕草に、一瞬体が強張った。
いっそ避けてもよかったのだけど、大人気ないかもと思い直し、促されるまま一緒に礼拝堂に入りながら、こっそりため息をついた。
どうも調子が狂う―――今朝のことにしてもそうだ。
同居する前は、もうちょっと遠慮があったような気がするんだけど、気のせいだろうか?
「スゴいね、初めて見た…」
「え?」
隣に顔を向けると、カズが祭壇の隅を見ている。
そこに据えられているのは、テレビなどで見るよりはずいぶん小ぶりだけれど、本物のパイプオルガンだ。
渡された設計資料の中に書いてあったけど、実際に音を聞いてみると、なかなかの迫力で驚いてしまう。まるで管弦楽を聴いているかのように、実に様々な音が、1台の楽器から鳴り響いている。
「そうだね、礼拝堂は、これを生かせる造りにしよう。」
音響効果の見込める素材とか、資料を集めなくちゃ…そう色々と考えを巡らせていると、隣からふっ…という音がして、顔を上げると、カズが苦笑しながらこっちを見ていた。
「トーコさんは、油断するとすぐ、“どっか”に行っちゃうね?」
どういう意味だろう?―――と首を傾げると、カズが更に苦笑する。そこで、パイプオルガンがまた曲を奏で始め、礼拝が始まった事を告げた。
パイプオルガンの演奏が終わると、黒いローブを纏った男性が祭壇に上がる。
渡されていた冊子を捲ると、次は聖書のこのページ、次は賛美歌の何番と、実に丁寧に記されていて非常に興味深い。こっそりと見回した限りでは、参会者に若い人が少なく、ぶっちゃけお年寄り率が高い。
結婚式を信仰に拘りなく執り行うのも、その辺の事情があるのかもしれないけれど、外観もさながら、中もかなり古くて薄暗い。清潔に保たれてはいるけど。
これでは、なかなか結婚式を挙げようという人も来ないんじゃないかな…?
そんな事をつらつらと考えていると、賛美歌が終わった。
次は何だろうと冊子に視線を落とすと、カタン、と音がして、人の動く気配がする。
何の気なしに顔を上げて、驚愕で体が強張った。
「本日の朗読は、旧約聖書千三十六ページ、コヘレトの言葉第3章1節から8節です―――」
息が詰まる。
心臓が早鐘を打つ。
祭壇の前に立って、聖書を読むのは、“あの人”だ―――
「何事にも時があり、天の下の出来事には、すべて定められた時がある」
どうして、ここに?
旦那さんは? 赤ちゃんは?
どうして―――
「トーコさん?」
遠くに何かが聞こえる
生まれる時
死ぬ時
泣く時
笑う時
求める時
失う時―――
ぐらぐらと地面が揺れる。
苦しさに、大きく息を吸い込もうとした、その瞬間、
ぐいっと、強い力で腕を引かれ、唇を塞がれた。
何社かで競合しているので、社内でもコンペをする事になり、それで現地に行ってみようと思ったのが、そもそものきっかけだった。
「調べてみたら、日曜日に礼拝があってね、結構自由に参加出来るみたいなんだ。」
そう言いながら、メットをカズに返す。
もうすっかり乗り降りにも慣れちゃってる自分がこわい。
古びた外観のコンクリート打ち放しの壁には、かなり大きなクラックが入っていて、なるほどこれは早急に建て替えをする必要があるようだ。
幼稚園が入っているなら尚更。
カズと連れ立って中に入ると、ずいぶんと寒い。エアコンがあるようだけど、それでは足りないのか、ロビーにファンヒーターが幾つか置かれている。大きな窓がある割に寒々とした印象なのは、床のタイルがグレーなせいもあるだろう。
色を変えるだけで、体感温度が少しは変わるものだし、この辺も意識しておこうと思う。
礼拝堂の外に設けられたカウンターが受付のようで、品の良さそうな白髪のご婦人が座っている。
初めてである事と、信者では無い事を告げた後、渡されたアンケート用紙のようなものに、名前と大まかな住所を書いて渡した。
「こちらの冊子に、今日の朗読箇所と、賛美歌の番号が振ってありますので、参考になさって下さい。」
歌えなくても構いませんから…と和やかに言われて、意を決する。
「あの、礼拝の後で、なんですけど…」
「はい?」
「こちらの施設を、ちょっと、見学させて頂く事は出来ますでしょうか?」
「…見学、ですか?」
ご婦人は一瞬戸惑ったような顔をした後、ああ!と合点がいったという顔になって、ニッコリと微笑んだ。
「ご結婚のご予定が?」
「へっ?!」
思いもよらない言葉に、ヘンな声を上げてしまう。
ケッコンって、結婚?! 誰と誰が?!
「ぃいえっ、あのっっ」
「信者で無くても、式を挙げさせてもらえるんですか?」
何を思ったのか、カズが横に並んで婦人に話しかける。
「ええ、もちろんですよ。何回か勉強会に参加して頂く事になりますけど。」
「勉強会、というのは?」
「主に結婚の心構えについてですね。やはり結婚というのは人生の中でも重要な儀式ですから。」
そうそう、と婦人が穏やかに微笑んで続ける。
「洗礼を受けて頂く必要は無いんですよ。私達にとって、お二人の晴れの門出をお手伝いさせて頂ければ、これ以上の幸いはございませんので。」
「手伝いをする事が幸いになるんですか?」
「ええ、もちろん。」
カズの続けざまの質問に、婦人の笑顔が更に深まる。
「人の喜びを自分の喜びとすることで、喜びが倍になり、人の苦しみを自分の苦しみとすることで、苦難を分かち合える。それが、人生の様々な試練を乗り越えていく為の糧となるのです。これは、キリストの教えに限らず、これから人生を共にしていくお二人には必要な心構えですよね?」
だから、教会だと構えずにお越し下さいな、と言われ、思わず納得した所で我に返る。
「いえ、あの…」
結婚しに来たんじゃないんです―――という抗議の声を上げるより早く、礼拝堂の中から、沢山の音が重なり合ったような音が鳴り響いた。
「ああ、始まりますね。これを持ってあちらからお入り下さい。」
聖書と賛美歌を渡され、ありがとうございます、と勝手にカズが話を切り上げた。
「ちょっと!」
どういうつもり?!と睨み付けると、まあまあと宥めるように言いながら、いつものように微笑む。
「あの様子なら、後できっと、色々案内してもらえるよ?良かったね?」
まるで自分の手柄のように言うから憎らしい―――そう思ってるのを隠しもしてないのに、カズはどこ吹く風で、行こうと背中に手を回してくる。
妙に慣れてるその仕草に、一瞬体が強張った。
いっそ避けてもよかったのだけど、大人気ないかもと思い直し、促されるまま一緒に礼拝堂に入りながら、こっそりため息をついた。
どうも調子が狂う―――今朝のことにしてもそうだ。
同居する前は、もうちょっと遠慮があったような気がするんだけど、気のせいだろうか?
「スゴいね、初めて見た…」
「え?」
隣に顔を向けると、カズが祭壇の隅を見ている。
そこに据えられているのは、テレビなどで見るよりはずいぶん小ぶりだけれど、本物のパイプオルガンだ。
渡された設計資料の中に書いてあったけど、実際に音を聞いてみると、なかなかの迫力で驚いてしまう。まるで管弦楽を聴いているかのように、実に様々な音が、1台の楽器から鳴り響いている。
「そうだね、礼拝堂は、これを生かせる造りにしよう。」
音響効果の見込める素材とか、資料を集めなくちゃ…そう色々と考えを巡らせていると、隣からふっ…という音がして、顔を上げると、カズが苦笑しながらこっちを見ていた。
「トーコさんは、油断するとすぐ、“どっか”に行っちゃうね?」
どういう意味だろう?―――と首を傾げると、カズが更に苦笑する。そこで、パイプオルガンがまた曲を奏で始め、礼拝が始まった事を告げた。
パイプオルガンの演奏が終わると、黒いローブを纏った男性が祭壇に上がる。
渡されていた冊子を捲ると、次は聖書のこのページ、次は賛美歌の何番と、実に丁寧に記されていて非常に興味深い。こっそりと見回した限りでは、参会者に若い人が少なく、ぶっちゃけお年寄り率が高い。
結婚式を信仰に拘りなく執り行うのも、その辺の事情があるのかもしれないけれど、外観もさながら、中もかなり古くて薄暗い。清潔に保たれてはいるけど。
これでは、なかなか結婚式を挙げようという人も来ないんじゃないかな…?
そんな事をつらつらと考えていると、賛美歌が終わった。
次は何だろうと冊子に視線を落とすと、カタン、と音がして、人の動く気配がする。
何の気なしに顔を上げて、驚愕で体が強張った。
「本日の朗読は、旧約聖書千三十六ページ、コヘレトの言葉第3章1節から8節です―――」
息が詰まる。
心臓が早鐘を打つ。
祭壇の前に立って、聖書を読むのは、“あの人”だ―――
「何事にも時があり、天の下の出来事には、すべて定められた時がある」
どうして、ここに?
旦那さんは? 赤ちゃんは?
どうして―――
「トーコさん?」
遠くに何かが聞こえる
生まれる時
死ぬ時
泣く時
笑う時
求める時
失う時―――
ぐらぐらと地面が揺れる。
苦しさに、大きく息を吸い込もうとした、その瞬間、
ぐいっと、強い力で腕を引かれ、唇を塞がれた。