ガラスの境界、丘の向こう
「ほら、やっぱりあの子、迷っているのよ、中国から一人で来ているのよ、かわいそう。助けてあげないと……」
 イザベルがそうマーカスに言うのが聞こえた。

 マーカスは眞奈になんと話しかけたらいいのかと少しためらった後、「ひょっとして迷ってる?」と声をかけた。

 眞奈は赤くなったのを気づかれないようにうつむいた。情けなかったが、もっともらしい嘘も思い浮かばない。
「ええ、迷っているの。次の授業の二〇八号室がわからなくて……」、眞奈の声は恥ずかしさのあまり消え入りそうだった。

 マーカスは微笑んだ。
「右に行って東階段を上って廊下の三つ目の角を左に曲がり、小さな階段を上がったつきあたりだよ」

 たぶんマーカスはそんなふうなことを言っていたのだろうが、眞奈にはあまり理解できなかった。
 早く逃げ出したくて、オウム返しに「ありがとう」と小声で言い、イギリス式に口角をきゅっと上げて微笑みをつくった。

 この『イギリス式口角上げ微笑み』――と眞奈は勝手に呼んでいたが――は英国人には不思議とポジティブな効力がある。

 日本人の眞奈からすると笑顔をつくろうと思ってつくるのはわざとらしくて気が引けるのだが、おそらく文化の違いであろう。

 今の場合も明らかに下手なつくり笑いなのに、マーカスとイザベルは自分たちの助言が役に立ったと思い込み、二人は満足げに去って行った。
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