浮気の定理-Answer-
「あの、どちらの木下さんでしょうか?」



当然といえば当然だ。突然娘を訪ねてきた中年男に警戒しないわけがない。


けれどその母親の声と被さるように赤ん坊の泣き声がかすかに聞こえた。


やはり紗英はここにいるのだ。



「以前、紗英さんにバイトをしていただいていた店の店長なんですが」



いきなり子供の父親だと名乗ったところで受け入れてはもらえないと思った俺は、とりあえずそう伝えた。


中に紗英がいればきっと慌てて出てくるか、もしくは居留守を使われるかのどちらかだろう。


そう思っていた。



「少々お待ちいただけますか?」



少しの間があったあと、そう言われてゆっくりと息を吐く。


とりあえず会わせてもらえるのかもしれないと思った俺はそのまま玄関の前に佇んでいた。


様子がおかしいと思ったのは、そのままなんの音沙汰もなく数分が経った頃だった。


少なくとも待てと言われたからには紗英でなくとも誰かしらが玄関から顔を出すと思っていたから。


しかたなくもう一度チャイムを押してみる。


けれど今度は誰からの応答もなく、部屋の奥の方で赤ん坊の泣き声と間延びしたチャイムの音だけが響き渡っていた。
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