幽霊と私の年の差恋愛



「ありがとうございました」


お互いに頭を下げ、美波は店を後にする。


ーーーこれからは、自分を大切にしてくださいね。良ければまた遊びに来てくださいーーー


真糸が最期に守りたかったものを、俺も守りたい。春臣は終始柔和な笑みを浮かべ、美波にそう告げてくれた。


「良い方ですね、春臣さん」


ぽつりと呟くと、真糸は少しだけ得意げに鼻をすすった。


「そうでしょ? さすがは僕の友人だけあるよ」


まるで自分が褒められたかのような真糸の反応に、美波も釣られて笑みを浮かべる。

時刻は十時過ぎ。街の人々は酒も深くなり、随分と陽気になってきた。中には、千鳥足で覚束無い者もちらほら伺える。夜の街に、ネオンの明かりがチカチカと瞬きをしているようだ。

それは、春臣の店を出て数分としないうちに起きた。


「おい……お前美波かよ……?」


酒焼けしてドスの聞いた声が、美波を呼び止めた。聞き覚えのある声に、美波はびくりと肩を揺らして身体を硬直させる。


「……なぁんかやな感じ。どういう知り合い?」


やや警戒したように、真糸が美波に尋ねる。しかし美波は一瞬、まるで喉が塞がってしまったかのように、声を出すことはおろか呼吸すら止まってしまいそうだった。


「……無視してんじゃねぇよ」


「痛っ……」


乱暴に肩を掴まれ、無理矢理振り向かされる。そこにいたのは、鋭く目を細めた体格の良い男。

異質なのは、男の首筋で目を赤く光らせる蛇の刺青。

そして両耳以外にも、眉や唇など顔中に開けられたピアス。


(最後に会った時より数が増えてる……)


ぼんやりと的はずれなことを考えていると、掴まれたままだった肩を壁に思い切り押しつけられ、再び痛みが走る。


「痛いって……!」

「うるせーんだよ。あぁっ?」


低い声で凄まれるも、美波は負けじと睨み返した。


「し、しつこいっ。もう私に関わらないでよっ……」


「あ?」


美波の反抗が気に食わないというように、男は眉間のしわを深くして顔を歪めた。


(ひょっとこみたい……)


恐怖を覚えながらも、美波はやはりどこか場違いな感想を心の中で述べていた。この男と対峙する時、美波の思考はいつもバラバラに散らばって取り留めがなくなってしまうのだ。


「てめぇ……勝手に逃げといて生意気な口聞いてんじゃねぇぞ」


一瞬の出来事だった。

男の拳が、美波の鳩尾を突き上げた。美波は声を出すことも出来ず、苦悶の表情を浮かべてズルズルとその場にうずくまる。


「美波ちゃんっ……!」


ことの成り行きを黙って見守っていた真糸が、弾かれたように美波に駆け寄り膝をつく。


「大丈夫っ!?」


美波は腹部を押さえたまま、苦しげな表情で男を睨みつけた。


「……まだそんな面しやがるのか?」


男は冷たい視線で美波を見下ろした。


「あんだけ痛めつけてやったってのに…まだ分からねぇみたいだな」


すっと、男が足を振り上げる。


(蹴られるっ……!)


思わず目をきつくつむる瞬間、美波は自身の身体に真糸が覆いかぶさるのを見た。


「えっ……?」


やって来るはずの痛みが来ない。

何が起きたのか分からず恐る恐る目を開けると、そこには意外な光景が広がっていた。


「春臣、さん……?」


美波の代わりに男の蹴りを受け止めていたのは、先程分かれたばかりの春臣だった。

春臣は左手で男の蹴り足の軌道を逸らし、さらに相手の勢いを利用して自身の右膝を男の脇腹にめり込ませていた。


「女性に手を上げるなんて、感心しませんね。弱いくせにいきりやがって……この糞ガキが」


何の感情も読み取れない表情で、伸びてしまった男を見下ろす春臣。しかしふと我に返ると、慌てたような顔で美波の身体を起こしてくれた。


「すみません。もう少し早く助けられれば良かったのですが……立てますか?」


美波は春臣に支えられ、よろめきながら何とか立ち上がる。少しだけ呼吸を整えると、まだ痛みは残るものの自力で帰ることが出来そうだ。


「ありがとうございます……。助かりました。でも、どうしてここに?」


まだ店は営業時間中だ。何故春臣がここにいるのか、美波は不思議に思い素直に尋ねる。


「これ、忘れていきましたよ」


春臣の手に握られている見慣れたスマホに、美波はあっ、と声を上げた。


「驚きました。まだすぐそばにいると思って追いかけたら、美波さんが男に殴られていたので」


警察に届けようという提案を丁重に断り、やがて美波と春臣は歩き出す。店はバイトに任せてきたからと、春臣は美波を自宅まで送ってくれることになった。














「付けられてはいないはずですが……。念のため、戸締りはきちんとしてくださいね」


美波を二駅隣にあるアパートまで送ると、春臣は玄関から中へは入らず、そのまま店へと戻っていった。

扉を閉めたあと、美波は念のためチェーンロックをかけて奥へと入る。

そこには目を閉じて眉間を揉みながら、テーブルの前にあぐらをかいている真糸の姿があった。


「……言っておくけど、僕はハルみたいに優しくはないからね。いくつか君に質問がある」


聞いたことのない低い声で、そう前置きをする。美波は下唇を噛みながら、いつもの場所に座った。


「あの男は美波ちゃんの元彼かな? 君とは随分雰囲気が違ったけど」


美波は俯いたまま、ゆっくりと首を縦に振る。


「大学生の頃から付き合っていたんです。昔からお金や時間にだらしない人でしたけど、優しかったんです。でも上京してからは悪い仲間とつるむようになって暴力まで振るうようになって……。別れてほしいって伝えたんですけど、逆上されてしまって……あの日……」


それが、あの日ーーー。


「あの……日……?」


(あの日……何があったんだっけ……?)


美波の脳裏に浮かんだのは、あの廃ビルだった。しかしどうしてそんな場所にいたのかは思い出せない。

将に別れを告げ、何もかも嫌になった美波は自宅に電話をかけ、そのままビルから飛び降りた。

まるで今朝見た夢を思い出そうとするかのようにぼんやりとし始めた美波に、真糸は険しい顔つきで鼻を鳴らした。


「なるほどね……。いやぁ、僕は久々に腹が立って仕方ないよ」


黙ってしまった美波に、真糸は空笑いを上げながらそう言った。

その表情は笑顔なのに、目が笑っていない。美波はそこはかとない恐怖を覚えた。


「ねぇ。服、脱いで」


唐突に、真糸が呟いた。


「えっ……」


突然のその言葉に美波が戸惑いを見せるのも構わず、真糸は服を脱ぐように促す。


「殴られたところ。たぶん痣になってるから、見せてみて」


頬に真糸の手が近づき、ひんやりとした冷気を感じる。真糸の圧力に飲まれ、美波は黙ってブラウスのボタンに指をかける。

一つ一つ、ブラウスのボタンが外されていく。ついに最後の一つを外し終えると、美波はおずおずとブラウスを脱ぎキャミソール姿になる。


「あ、あの……」


戸惑いを示すも、真糸は聞く耳を持たない。


「早く、それも脱いで?」


冷たい眼差しに射抜かれ、美波は意を決してキャミソールをたくし上げる。そこには、ちょうど拳の形に紫色の痣が広がっていた。


「ああ、ほら……。やっぱり痣になってた」


真糸の顔が腹部に近付けられた。ズキズキと痛みを訴える場所に冷気を浴びて、思わず仰け反ってしまう。そのままバランスを崩し、美波は床に仰向けに倒れた。


「ま、真糸、さ……」


倒れた美波の両側に手を突き、真糸が上から覗き込んでいた。その瞳は冷たいのに、どこか悲しげで、そして燻る熱を秘めている。

それは強い怒りを携えた、悲しみの色だった。


「んっ……」


真糸の唇が、ゆっくりと鳩尾をなぞった。本当に触れている訳では無い。それなのに冷たい感触が妙にリアルで、美波は上擦った声を漏らした。


「どうしたの? そんな可愛い声出して。もしかして感じちゃった?」


「そ、んなこと、ないですっ……」


呼吸を乱しながら、美波はまるで自分に言い聞かせるように、真糸の言葉を否定する。しばらくそうしているうちに、ふと真糸が笑みを漏らし、美波から身体を離した。


「ごめんね。少しからかい過ぎたよ」


真糸から解放されると、美波はばっと自身の身体を両手で被った。頬を赤らめ、目は泣く寸前のように潤んでいる。


「ひ、ひどいです……。真糸さん、いくらなんでもやりすぎですよっ……!」


あんな場面に居合わせ、真糸の機嫌が悪くなるのももっともだと思った。

美波もそれを自覚しているから、途中までは黙って彼の指示に従ったのだ。

それでも、こんな風に弄ばれてしまうのは、やはり納得のいかないところがあった。


「ごめんごめーん。だって君があんまりにも良い身体してるからさ。これでも僕、一応男よ?」


そう言ってにやりと口角を上げる彼は、もう普段の彼と変わりないようだった。


「さ、今日はもう遅いし、明日も仕事だろう? シャワーでも浴びておいでよ」


にこやかにそう言われ、美波は顔を赤く染めたまま無言で部屋を後にした。










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