幽霊と私の年の差恋愛
愛佳とは、十一時に会社近くにあるイタリアンで待ち合わせをしていた。愛佳が行きたがっていた店で、夜はレストラン、昼はカフェとなっている。
明るいガラス張りの席で一人座っていた愛佳が、美波に気づいて片手を上げた。
「ごめん。待たせちゃった?」
時計は十一時を五分ほど回ったところだったが、愛佳の前に置かれていたアイスコーヒーのグラスはほとんど氷だけになっていた。
「はは〜、やっぱり愛佳ちゃんも、仕事の時よりさらに可愛いね〜」
認知されていないのを良いことに、真糸は正面から愛佳の顔を覗き込む。
「……」
「っ……?」
一瞬だけ、真糸は愛佳と目が合ったような気がした。そして気のせいかと思うくらいほんの僅かな違和感は、初めて会社で愛佳を見た時に感じたものと一緒だ。
(この娘を見てると何か気になる……なんだ…… この感じは……?)
真糸の心に芽生えた違和感をよそに、愛佳は顔の前でひらひらと手を振った。
「全然。会社に忘れ物取りに寄ったら、ちょっと早く着きすぎちゃったんだよね〜」
彼女は淡いブルーのワンピースとゴールドのアクセサリーが白い肌によく映え、可憐な印象を醸している。真糸が感じた違和は、寝起きに忘れていく夢のように散っていった。
「ていうか何? 美波、まさか走ってきたの?」
呼吸を整えている美波に、愛佳は驚いて目を丸くした。
ウェイトレスがタイミング良く寄ってきてオーダーを取る。二人はそれぞれランチメニューを注文する。
「真面目な美波らしいけど、私と会う時にそこまで気を使わなくて良いよ?」
友人の有難い言葉に、美波は曖昧に微笑んでみせた。
(まさかキスを試みながら二度寝したなんて、言えない……)
美波の誤魔化すような笑みをどう捉えたのか、愛佳はにんまりと口角を上げる。
「もしかして〜。昨日彼氏と?」
その問いに、美波はぎょっとして首を横に振る。そういえば愛佳には、まだ彼に別れを告げたことを報告していなかった。
「実は、彼とはもう別れたんだよね。……たぶん」
美波の報告に、今度はぱちくりと目を瞬かせる。本当に愛佳の表情は分かりやすいし、見ていて飽きない。
「そ、そうなの? ていうか、多分って何よ?」
愛佳の疑問ももっともである。美波はそれは深い深いため息を吐きつつ、ちらりと横にいる真糸に目を向けた。
何となく、真糸の前で元彼の話をするのは憚られたからだ。
「……」
やはり彼は、なんとも言えない不機嫌そうな顔で柱にもたれ掛かっている。
「うーん……なんか、別れを切り出したは良いものの、なかなか諦めてくれなくてさ……」
「え、もしかしてストーカーになっちゃったとか?」
「……っていうわけじゃないけど」
愛佳のストレートな物言いに、美波は言葉を濁す。ストーカーされているわけではないが、夜道で突然暴行してくるなど十二分に犯罪行為を犯すような男だ。
今後ストーカーになることも有り得るだろう。
「まぁ、別れて正解じゃない? 美波から聞いていた話だけでも、相当ヤバいやつだったもんね」
やがて運ばれてきたパスタランチに、二人は暫し夢中になる。愛佳に至っては、SNS用にと角度を変えて何枚も写真を撮っていた。
「ん〜。見た目だけじゃなくて、味も最高! もっちもちの生パスタ、おいし〜」
頬に手を添えてパスタを堪能する愛佳に、美波は人知れずホッとする。正直、元彼の話題は別れたことだけをさらっと報告して終わりにしたい。
愛佳もあまり他人の話題を掘り下げるタイプではなく、あくまで自分の話をしたい人間だ。
聞き手の方が楽だと感じている美波とは、こういう面でも波長が合うのだろう。
案の定、その後はずっと愛佳の話を聞いているだけでよかった。
(あれ……?)
お喋りに夢中になり、気が付くと空はうっすらと橙が差してきた頃だった。
ランチのあとは、ドリンク一杯で随分と長居してしまった。
愛佳の話に相槌を打ちながら、美波はふと周りを見渡した。
「美波? どうかした?」
突然キョロキョロし始めた美波を怪訝に思ったのか、愛佳が不思議そうに首を傾げた。
「あ、ごめん。ちょっとお手洗い行ってきてもいい?」
一言詫びを入れながら、美波はバッグを手にして席を立つ。
そしてゆっくりと辺りを見回し、レストルームを探すふりをした。
(真糸さん……どこ行ったんだろう?)
ふと気づいた時、既に真糸の姿が消えていたのだ。
どうせ美波から遠くへは離れられない。何が出来るわけでもないからと普段はそばで話を聞いているか、時々美波にちょっかいを掛けて怒らせている。
その真糸が、何故か姿を消していた。
あまり立ち止まっていても不自然なので、ひとまず店の奥にあったレストルームへと入る。
「ひっ……」
思わず悲鳴をあげそうになった美波は、寸でのところでそれを飲み込んだ。鏡の前でメイクを直していた女性が、怪訝そうにこちらをちらりと見遣る。
(真糸さんっ! 何やってるの!?)
姿を消していた真糸は、何故かレストルームにいた。メイクを直している女性の真横に立ち、ただ呆然とその姿を見つめている。
女性は、なかなか個室に入らない美波をメイク直しの順番待ちだと思ったのだろう。手早くリップを塗り直し、にこりと小さく会釈をして店内に戻っていった。
すれ違いざま、ほのかに薔薇のような香水が香った。
「ま、真糸さん!」
先に我に返ったのは美波だった。相変わらずぼんやりとしている真糸に真正面から抗議する。
「いくら綺麗な人だからって、女子トイレにまで入ってくるなんて駄目ですよ!」
さすがに、真糸が美波のトイレや風呂を覗いたことは一度もない。何故かいつもの真糸とは様子が違う気がして、美波は少しだけ胸がざわついた。
「……かけて」
「え?」
ぽつりと、真糸が何かを呟いた。
「今の娘追いかけて、美波ちゃん」
「はい? え、ちょっと待ってください!」
美波の答えも聞かず、さっさとドアをすり抜けて女性を追いかけていく真糸。ドアを出ると、女性は会計を済ませ店をあとにするところだった。
「美波? 遅かったじゃない。大丈夫?」
慌てて席に戻ると、スマホをいじっていた愛佳が心配そうにそう尋ねた。美波
は真糸と女性を視界の隅に捉えながら、慌ただしくバッグを掴む。
「ご、ごめんっ。ちょっと体調が……。今日は帰ってもいいかな……」
せっかく久々にゆっくりできると言うのにーーー。バタバタとして愛佳に申し訳なく思いつつも、ガラスの向こうに遠ざかっていく二人が気になって仕方ない。
愛佳は驚いたように目を丸くする。
「本当に大丈夫? 家まで送ろうか?」
「い、良いの! 一人で帰れるから……」
平謝りしながら、テーブルに代金を置いて二人を追いかける。
突然帰ってしまった美波の後ろ姿が見えなくなるまで、愛佳は呆気に取られながら見つめていた。
「……あーあ」
ふと漏れるため息は、普段の愛佳からは想像もできないほど低い。
「……チッ。たく、余計なことしやがって……」
その呟きは、いったい誰に向けられた言葉なのだろうか。
愛佳はバックに手を突っ込むと、煙草とライターを取り出し慣れた様子で火を付けた。