幽霊と私の年の差恋愛
「ここが彼のお店よ」
栞の案内でたどり着いた場所には、地下へと続く細い階段があった。その上にはプレートが吊り下げられており、店名が洒落た字体で控えめに書かれている。
「プールバー……『キスショット』……」
まさか、という思いと、やはり、という思い、どちらが上だっただろうかと美波は思考した。
「うふふ。やっぱり入りにくいわよね? だからもうちょっと可愛い看板にしようって私は提案したのに。まぁ入って。中はそんなに堅苦しい場所じゃないのよ」
(デジャブだ……)
前にも聞いたことのあるような台詞に促され、美波は返事もできないまま栞のあとに続くしかなかった。
店内には、相変わらずほんのりと優しい照明が灯され、心地よいジャズが流れていた。開店直後ということもあり客はおらず、バーテンダーの桜沢春臣がカウンターで一人、やはりグラスを磨いていた。
「春臣君、お客さん連れてきたのよ」
春臣がこちらに声をかけるより早く、栞は人好きする笑みを浮かべてカウンターに駆け寄った。春臣は美波を視界に入れると、少し驚いたように目を見開いた。
「これは美波さん、いらっしゃいませ」
「こ、こんばんは……」
どうリアクションするか考えあぐねているうちに、栞がきょとんとした顔で唇に人差し指を置いて首を傾げた。
その仕草はまるでマンガの登場人物のようであったが、栞がやると三次元でも不自然ではないほど様になっていた。
オレンジの照明が、栞の艶かしい唇に反射する。
「どうして春臣君が美波ちゃんを知っているの?」
背の高いスツールにも美波とは違い慣れた様子で腰掛けながら、栞はストレートに疑問をぶつける。
その答えを知ったら、彼女はどんな反応をするのだろうーーー。
美波は唐突に、全身が恐怖で凍り付きそうな感覚を覚えた。心臓の辺りに、冷たい氷の刃が突き刺さるようだった。
「ああ……彼女は、うちの常連さんだよ」
春臣は、いつの間にか二人分のカクテルを作り、二つ同時に差し出した。
乳白色のそれは栞へ。琥珀色のそれは美波へ。どちらからも湯気が立ち、甘い香りが上っていた。
栞は、驚きによって大きく丸い瞳をさらに丸くした。
「そうだったの!? 美波ちゃん、それならそうと教えてくれれば良かったのに〜」
そう言って美波に向けた大きな瞳は、なんの疑いも持たない澄んだそれだった。
屈託のない笑みを浮かべて、改めて春臣のことを交際相手であると紹介した。
美波は曖昧な笑みを浮かべたあと、ちらりと春臣を盗み見た。一瞬だけ目が合い、彼が少しだけ頷いたように見えた。
「美波ちゃんはミルク入りじゃなくても飲めるのね! 私は子ども舌だから、ラムだけだとどうしても飲めなくて」
未だに立ち尽くしていた美波を椅子に促しながら、栞は屈託なく笑う。しかし次の瞬間、表情に僅かな影が差したことに、美波は気付いていた。
「……シナモンは入れないのね」
「……スパイスは苦手で」
「……ふぅん。そういう人も多いわよね。私の知っている人もそうだった」
「……」
それきりしばらくの間、会話は途切れてしまった。穏やかなジャズと、春臣がグラスを磨く音だけが空間を支配する。
そういえば最初にこの店を訪れた時、この調合のホットバタードラムは真糸の好きなカクテルだったと春臣は呟いていた。
彼女もまた、それを思い出しているのだろう。
(そう言えば、真糸さんはっ……?)
今更ながら、美波は意識を真糸に向けた。普段なら嫌という程ちょっかいを掛けてくる真糸が、先程から一言も発していない。
くるりと後ろを振り返ると、ビリヤード台に腰かけ長い足を投げ出している彼が栞を見つめていた。
(あ……まただ……)
また、あの瞳。
栞の後頭部辺りを見つめるその眼差しは、口元の笑みに反してひどく切なげで、苦しそうだった。
丸眼鏡に白衣の彼は、永久に時が止まったままーーー。対する彼女は、時折過去を振り返ることはあっても、すでに新しい恋人を作り、職も変え前に進んでいる。
(真糸さん……私のせいで……)
人知れず、美波は膝の上で拳を握りしめ、下唇を噛んだ。
「ところで栞ちゃん、美波さんとはどこで?」
「ああっ! そうなの、春臣君聞いてくれる? 実はね……」
場の空気を読んだ春臣がさりげなく会話を促す。彼に尋ねられると、栞はまるで湯水が流れるように今日あったことを話し出した。時々相槌を打ちながらも、春臣は口を挟むことなく彼女のお喋りに耳を傾けていた。
「もうね、本当に困っていたのよ。でも突然相手が倒れて、その隙に美波ちゃんが助けてくれて……」
栞の言葉に、やはり春臣はただ相槌を打つばかりだった。
「最近本当についてないわ……ただでさえ真糸が……あ、ごめんなさいね。″友人″のことでちょっと色々悲しいことがあって……それで仕事も辞めちゃって……。彼に合わせて生活時間を夜に変えて、頑張ろうって思ったのに」
″友人″という言葉に真糸が眉を下げたのを、美波は横目で見ていた。事情を知っているであろう春臣も、少し困ったような表情をしている。
(この三人が元々どういう関係だったのかは分からないけれど……)
真糸の気持ちを思うと美波はいたたまれない思いになり、少し冷めてきたカクテルを一気に煽った。
「やっと少し仕事にも慣れて楽しくなってきた途端にこれだもの。もうやんなっちゃう。……ふふ、そう言えば私達、明日デートなのよ。ね、春臣君?」
伏し目がちだった顔を上げ、栞は元の明るい笑みに戻った。
そこからは他愛もない話が続いた。栞は最初の印象通り、本当によく喋る女性だった。自分の話したいことを事細かに時系列に沿って話す姿は、どこか自分の友人である愛佳を思い出した。
その間、真糸は何か言葉を発することなく、ビリヤード台に腰掛けたまま口元だけの笑みを浮かべていた。