幽霊と私の年の差恋愛
バーからの帰り道、美波と真糸はお互い一言も声を発さなかった。
元々周りからは美波が独り言を話しているように見えてしまうため、普段なら話しかけるなと散々口を酸っぱくしているところなのだ。
それなのに、今日の真糸はと言えばどこか遠くを眺めては大きな溜息を吐いてどんよりとしている。地縛霊か何かかと言われれば、あながち間違いでもない。
古びたアパートに帰ると、真糸は美波がドアの鍵を開けるより早くするりと室内へ消えて行った。
そして美波が一つしかない部屋に入り電気を点けると、最奥にあるベッドに突っ伏す彼の姿があった。
「あのー真糸さん……? 生きてます……?」
綺麗に整えられたベッドへうつ伏せのままダイブして動かなくなった真糸に、美波が遠慮がちに声をかけたのは既に日付をまたぐ頃だった。
変な声のかけ方だという自覚はあったが、他に何と話しかければいいのか分からない。帰宅後数時間、美波は既に風呂も済ませ、あとは何とはなしに雑誌をぼんやりと眺めていた。しかしいい加減まぶたも重くなり、ついにベッドを占領する真糸に話しかけることを決めたのだった。
「死んでるよ……身も心もね……」
うつ伏せで微動だにしないまま、真糸がボソリと呟いた。それは直喩と比喩が混ざったもので、バツが悪くなった美波は困り顔で下唇を噛む。
「まっさかハルと栞が付き合うとはねー……人生って分からないもんだねぇ」
そう言った真糸の声は、精一杯繕って普段のおちゃらけたそれに近づけようとしている気がした。よっこらしょ、と掛け声をかけて、真糸がのそりと身体を起こした。
「ま、僕が死ぬだいぶ前にはすでに僕たち破局していたわけだし、二人が付き合うことは別におかしなことでも悪いことでもないんだけどねぇ。栞は元々誰かに依存しないと生きていけないタイプだし? 大方僕と別れたあとに慰めてくれていたハルに惚れた気になって、僕が死んだことをきっかけに二人の仲が急接近? ってところかな?」
まるで自分に言い聞かせるように、眼鏡を押し上げて分析した結果を捲し立てる。
「一方ハルは、近年稀に見る博愛主義の人間なんだ。きっと栞の涙もその胸で受け止めたことだろう。そして栞にはまだ僕への気持ちが残ってるってことを知りつつも、彼女の現実逃避に付き合って恋人になった。心の中で僕に土下座しながらね」
こんなふうにね、とベッドの上で土下座をして見せてから上げた真糸の表情に、美波は心臓が握り潰されたようだった。
「しっかし、いくらなんでも大学を辞めちゃったのは勿体なかったな〜。しかも夜の仕事って……いや別に偏見があるわけじゃないけど、ああ見えて彼女、本当に優秀だったのよ? 現に本屋で学術書を見るくらいにはまだ生物学に興味もある。僕のことを忘れるためとはいえまさかそんな」
「真糸さん」
急に饒舌になった真糸の言葉を、ただ黙って聞いていた美波が遮った。笑みを浮かべているはずの真糸が、泣いているように見えたからだ。
美波は自分もベッドの上に登り、正座をすると、そっと両手を真糸の頬に寄せた。
その手は真糸をすり抜けることなく、確かに彼の冷たい頬の感触を捉えていた。
「さ、触れた……?」
そのあと掛けようとしていた言葉は頭から吹き飛んでしまい、美波はただ、真糸の両頬を手のひらで包んだままアッシュの瞳と見つめあった。驚いたように固まっていた二人だったが、先に動いたのは真糸だった。
美波よりもリーチの長い腕を伸ばし、いとも簡単に彼女の後頭部を捉えると自身に引き寄せた。
鼻がぶつかる寸前で、二人はピタリと止まる。
「ねぇ」
引き寄せたのと反対の手で美波と同じように彼女の頬へ手をやると、真糸の長い親指が桜色の唇を数回往復する。
(近い……)
引き寄せられた瞬間、美波はまるでアッシュの瞳に吸い込まれたような錯覚を覚えた。
「慰めてくれる?」
眼鏡の奥の悲しみを湛えたその湖に、絡め取られて視線を逸らせなくなる。
「……良いですよ?」
反射的に、美波はそう答えた。『応えたかった』というのが正しいのかもしれない。
鼻のぶつかりそうな距離はそのままに、美波の身体はぐらりと後ろに傾いた。ボスっと、さして柔らかくもないベッドの感触を背中に感じる。
「あっ……」
唇をなぞっていた真糸の指が、そろりと首筋を伝った。擽ったいような、けれど美波の中に小さな火種を呼び覚ますには充分なその刺激に、思わず声が漏れた。
しばらく首筋に触れたあと、真糸の指は耳を弄び、うなじをかき混ぜ、弓なりの背筋を下った。腰まで移動すると、指先が器用に服を掻き分け肌に直接触れる。
「っ……あ……真糸さん……」
腰、そして腹部を勿体ぶったような手つきで触れられ、美波は無意識のうちに膝をすり合わせていた。
不意に、一定の距離を守っていた真糸の瞳が動いた。
(キスされる……っ)
反射的に、美波はぎゅっと目をきつく瞑る。
唇を、ひんやりとした気配だけが掠めた。
その瞬間には、直接肌に触れていた手の感触も消え失せていた。美波は何が起きたのか理解出来ず、恐る恐る目を開けた。
「ざーんねん。良いトコロでタイムアップみたいだ」
そこには、普段と変わらない調子の真糸が、大袈裟に残念そうな表情で座っていた。
腕を組んで溜息を吐く様子をまじまじと伺っても、先程まで隠しきれていなかった暗い影は感じない。
「それにしても、可愛い顔で感じてたねぇ、美波ちゃん? おっさん、危うくオオカミになっちゃうところだったよ?」
かぁっと、美波の頬に熱が集まった。先程までの行為を思い出すと、何故自分があのような大胆なコトを受け入れられたのかまるで理解できない。
「わ、私、歯磨いてきます!」
慌ててベッドから飛び起きると、美波はさっさと部屋を出て脱衣場の扉を乱暴に閉めた。その扉を背に、ずるずると床に座り込む。今になって、もうずいぶん前に歯磨きを終えていたことを思い出した。
「キス……されるかと思った……」
そっと、真糸に触れられていた場所を自分でも辿ってみる。
首筋、耳、うなじ、背中、腰、そして唇ーーー。
どこを触れても、真糸に触られたような肌の粟立つ感覚は得られなかった。
将に殴られた夜も真糸には服を脱がされ素肌にキスされたが、あの時は実際に触れ合えたわけではなかった。
「私、どうしちゃったんだろう……」
真糸に引き寄せられた時、どうして『応えよう』などと思ったのだろう。
その疑問の答えに、美波は気付かないふりをした。
バタンと荒っぽく扉が閉まり、部屋には静寂が訪れていた。
「はぁ〜……」
家主が消えて行った扉から目をそらすと、真糸は本日何回目かの深い溜息を漏らした。
今は何も掴めない手のひらを見つめながら、つい先程の生々しい感触を回顧する。
死んでから久しくーーーと言うと妙な表現だがーーー感じることのなかった、自分にはおよそ持ち合わせていない肌の質感。柔く、滑らかなその感触。
ーーーあっ……。
加えて堪えきれずに漏れる、甘く切なげな吐息。
ーーーっ……あ……真糸さん……。
苦しそうに、自分の名前を呼ぶ細い声。潤んだ瞳と、紅潮する頬。風呂上がりの香り。
五感全てが過敏になり、らしくなく抑えきれない感情が芽生えた。真糸は思わず、乾いた苦笑いを浮かべる。
「だぁから。十も年下の子に発情するなんてやばいって……」
美波が殴られた夜も呟いた台詞で、再び自身を諌める。
本当に、自分はどうかしていたのだ。そうに違いない。
そう思うことにして、真糸は主が戻ってくるまでの間、再びベッドに転がることに決めた。
「そう言えばあの時も美波ちゃん、顔真っ赤にして部屋を飛び出してったよね〜。二度あることは三度ある? あ、それとも仏の顔も三度まで、かな? いやいやいや……」
自分の口から出た不吉な独り言に、真糸は慌てて首を横に振った。