幽霊と私の年の差恋愛
空が橙色に染まり、街灯が煌めいて街の雰囲気も夜のそれへと変貌を遂げていく。そんな頃、真糸はようやくほっとしたような笑みを見せた。
「うん、ようやく顔色も戻ったみたいだね。もう平気?」
リトの魂に揺さぶられて『心』と『身体』が不安定になった美波は、気分の悪さからしばらく動くことが出来ないでいた。
「はい、だいぶ良くなりました。もう大丈夫です」
真糸につられて、美波も小さく微笑みを浮かべる。
体調が戻るまでの間、真糸はベンチに凭れる美波に寄り添い手を握ってくれていた。
何だか今日この頃は実体化の自由度が上がってきたようだった。真糸曰く、少しだけコツを掴んだらしい。
「よし、元気になったなら、今のうちに早く帰るとしよう。君は念の為、今日一日安静にしていた方が良いよ」
そう言って立ち上がった真糸の肩越しに、忘れかけていた二人の姿を見つける。彼らは何やら楽しげな表情で笑い合いながら、腕を組んでいた。
「あっ! 真糸さん、尾行っ……」
真糸は苦笑を浮かべ、顔の前で手を振った。
「いや、もう良いことにするよ。それにあの二人が並んでるの、観覧車だろう? さすがにプライベートな空間を覗くのは悪趣味だぞ〜美波ちゃん」
散々尾行しようとしておいて何を言ってるんだ、と美波は飽きれる。そして、それが真糸なりのケジメなのだということも何となく分かった。
「行きましょう。私達も、観覧車」
そう言って、美波は有無を言わさず観覧車の列に並ぶ。まだ混み始めるには早い時間で、すぐに乗る順番が回ってきた。
二人は向かい合ってシートに腰を下ろす。
「乗ったって、位置的にあの二人は見えないだろう?」
真糸の言う通りで、すでにあの二人が乗り込んだ観覧車がどれなのかは分からない。美波とて、もう尾行などとっくに無理なのだと分かっていた。
「私が乗りたかったから乗ったんです。……真糸さんと」
言葉の最後は、声が小さくなった。それでも真糸にはしっかり伝わっていて、彼が小さく笑ったのが分かった。
気恥ずかしくて、美波は俯いたまま顔を上げることが出来なかった。それでも観覧車は止まることなく、だんだんと終わりに向かって進んでいく。
まるで人生の縮図のようだと、美波は思った。人を乗せて一周回れば、次はまた別の人を乗せて回り出す。思い浮かんだのは、悲しげな目をした少年の姿だった。
「そう言えば真糸さん、どうしてあの時助けに来てくれたんですか?」
美波がリトの手を取りそうになった時、それを阻止したのは真糸だった。彼はミラーハウスの外にいたはずなのに、どうして駆けつけてくれたのだろうか。
「ただの勘だよ」
真糸は事も無げに言った。彼は長い足を組み替えながら、中指で丸眼鏡を押し上げる。
「あんな狭い場所なのになかなか出てこなかったから、どうしたもんかと思ってね」
「うっ……それは、本当にただ迷ってただけで……」
バツが悪そうに、美波は口を尖らせた。真糸は堪えきれないというように吹き出した。
「ふっ、はははっ……ごめんね、美波ちゃんがあんまり可愛いから、つい」
ひとしきり笑ったあと、真糸は一つ長く息を吐いて呼吸を落ち着けた。
「いや、まぁ時間がかかってたってのは半分冗談だけど、一番は少年とのファーストコンタクトで覚えた違和感、かな」
「違和感?」
そのようなものを一切感じていなかった美波にとっては、あとから考えても思い当たることのないものだった。リトは腰に抱きついてくるその瞬間まで、屈託なく笑う普通の少年だった。
真糸は真剣な表情を浮かべ、片手で眉間を揉む。
「うん。違和感。本当に一瞬だったけど、何かちぐはぐな感じがね……。それがまさか中身と身体が別々とは予想外だったけど。もしかしたら霊体の僕だから分かったのかもしれない。結果的に、己の勘を信じて良かったよ」
そのまま真糸は、考え事をするように黙り込んでしまった。
まるで何かを思い出そうとしているかのようなその表情に、邪魔をしてはいけないと思い美波は窓の外へと意識を向ける。
「あっ……」
たまたま視界に入った数個隣のゴンドラ。中にいたのは一組の男女だった。一瞬春臣達かと思った美波だったが、よく見ると全くの別人だった。
「ん? どうかしたかい?」
「い、いえ、別に」
結局、美波は真糸の思考を中断させてしまい、慌てて何でもないと手を振った。
まだ夜景とはいかないが、せめて橙色の街並みでも見ていよう。そう思い、カップルから目を離そうとした、その時。
「あっ……!」
「今度はなぁに?」
再び真糸の集中力を削いでしまったようだが、美波は彼の問いに答えられず、ただ件のカップルを見つめていた。
「もしもーし。美波ちゃん?」
美波が固まっている様子を見て、真糸もまたその視線の先に目をやる。ややあって、その理由に納得したとばかりに口角を持ち上げた。
「ひゅ〜。熱いねぇあの二人。ていうかキスくらいでそんなに動揺しちゃって、美波ちゃんって年齢のわりに案外うぶなのかな?」
「ま、真糸さん! 私そんなんじゃっ……!」
否定してもしなくても恥ずかしいということに気付き、美波は顔を真っ赤にしてようやくカップルから目を逸らす。しかしやはり気になるのか、その後もちらちらと様子を伺っているのは明白だった。
「あ、さっきまでフレンチなやつだったのに、何か盛り上がってきた」
あえて見ないふりをしている美波に代わり、真糸はカップルの様子を実況する。
「彼女が彼氏の背中に腕を回した。うーん、あれは『ここでもOK』のサイン?」
「もうっ! 真糸さん下世話すぎますよっ!」
これ以上は聞いていられないと赤くなった耳を塞ぐ美波に、真糸はくつくつと喉を鳴らして笑った。
そしてーーー。
「ーーーーーーー?」
「え? すみません、よく聞こえなかっ」
耳を塞ぐ手を外して、美波が聞き直そうと顔を上げた時だった。
「真、糸、さん……?」
真糸がすぐ目の前にいた。こつりと、額同士が合わせられている。
「……額でキスした」
至近距離でアッシュの瞳に見つめられ、身動きが取れない。
「……瞳でキスした」
真糸が問う。
「……次は?」
その口元は微笑んでいるのに、瞳は真剣な色をしていた。
「……次は、どこが良い?」
遥か遠い地上から、楽しげな音楽が聞こえてくる。風でゴンドラがわずかに揺れる。些細な気配が美波の過敏になった五感を刺激するのに、全て他人事のように感じた。
「……ここに」
美波は震える指先で、自身の唇に触れた。
「ここに、して欲しい……」
羞恥に顔を染めながら、それでも逸らされない潤んだ瞳はどこか煽情的で。
「んっ……」
それ以上を求めてしまわないうちに、真糸は美波の唇に自身のそれを重ねた。
「んんっ……真糸、さん……」
それなのに、まるでそれ以上をと煽るような声で美波が呼ぶものだから、たまらず苦笑を漏らす。
真糸は片手を美波の後頭部に差し入れ、反対の手を背中に回す。そして触れるだけだった口付けを深いそれに変えた。
「はっ……ぁ……」
それは、熱くて冷たい不思議な感覚だった。突然の深いキスに一瞬驚いたように身体をビクつかせた美波だったが、まるでその感覚を堪能するかのように瞳を閉じた。
いつの間にか二人の乗ったゴンドラは観覧車の頂点に迎えられ、そして下っていく。
「あっ……は、ぁっ……真糸、さん……」
息継ぎが上手くできずに喘ぎながらも、美波は真糸の背に懸命に腕を回す。真糸の全てを受け入れようとするかのように、きつくしがみついた。
そんな美波に、真糸が困ったように笑ったのが気配で分かった。
「……駄目だよ」
はっとして、美波はきつく閉じていた瞳を開けた。そこには、切なげな表情で美波を見つめる真糸の姿があった。
「……勘違いするだろう? 僕達男って、馬鹿だからね」
その苦しげな声に、美波の胸は押しつぶされそうになる。
ゴンドラはもうすぐ、地上に到着する。甘美な時間は、あと少しで終わろうとしていた。
「勘違いじゃ、ないですから……」
小さな声で、それでもしっかりと美波は告げた。
「困ったな」
『三度目の正直』と小さくつぶやく声に、美波は首を傾げる。
最後に一瞬だけ、触れるようなキスをして二人は離れた。