幽霊と私の年の差恋愛
落ちていく、堕ちていく
毎朝、頬に落とされる口付け。いつの頃からか、彼と触れ合うと冷たくて熱い、不思議な感覚を覚えるようになった。
「ん……おはよう……真糸さん……」
美波はぼんやりと、真糸の唇が落とされた頬に手をやる。まだ彼の顔は至近距離にあった。端正なその顔を眺めていると、今度は唇同士が触れ合う。
「んんっ……」
抵抗するように、美波は真糸の胸辺りをどんどんと叩く。
あの遊園地以降、真糸はなんの躊躇もなしに、美波の唇を奪うようになっていた。
「いつもより熱いね」
真糸のひんやりとした掌が額に置かれ、心地良さに美波は目を細める。
「少し、熱っぽい?」
真糸の心配そうな声に、美波は首を横に振った。まだ半分夢の世界へ旅立っている身体を、無理矢理ベッドから起こす。
カーテンを明け、陽の光を浴びることで何とか覚醒を促す。しかし生憎、本日は雨日和で薄暗い。
真糸は相変わらず、心配そうな瞳を美波に向けていた。
「大丈夫ですよ? 最近少し、忙しかったからかなぁ……」
確かに自分でも風邪気味のような気はしたが、この程度で仕事を休むわけにはいかない。しとしとと音を立てる雨が、美波の憂鬱を助長した。
「測ってみて?」
ぽいっと渡されたそれは、体温計。テレビの乗ったローボードに収納してある、救急セットの中に常備しているものだ。
「……真糸さん、ますます物理的な干渉ができるようになってますね」
美波が驚くのはもっともだった。
最初は姿が見えるだけで、触れることすら出来なかったのだ。それなのに、今は体温計を取って渡すことまでできる。
「いや〜便利っちゃあ便利だけどね。不便なこともあるのよ。逆にすり抜けたい時に壁やドアにぶつかってさ……ああ、あとね」
真糸は肩を竦め、困ったように笑った。
「最近は他の人にも見えるようになってきちゃったし、そろそろ会社について行くのは止めるよ」
美波もそれには賛成だった。
「この前掃除のおばさん、びっくりして気絶してましたもんね」
それは美波が職場でトイレに立った時である。個室から出ると、清掃業者の女性が慌てたように声をかけてきた。
『ねえっ、女子トイレの外に怪しい男がいるんだけど、通報した方が良いかしらっ?』
突然の問いに、美波は面食らった。
『すっごくイケメンなんだけど、絶対にこの会社の社員じゃないわよっ』
確かに女子トイレの前に男が立っているとなれば、それが社員であってもおかしな話だ。そして聞けば聞くほど、その特徴は真糸に一致していた。
『美波ちゃーん?』
何と答えようかと考えあぐねている時、間の悪いことに真糸が壁から首だけを出したのだ。
『なんだー女子会中だった? 遅いから心配しちゃったよー』
トイレの長さで心配なんてされたくない、などと思わず口にしそうになった時。
『ヒッ……ぎゃあぁぁぁぁ〜〜〜っ!!!!』
美波の思考すら吹き飛ばすほどの絶叫が、真横から飛び出したのだ。
「いや〜あの時は驚いたよ。あのおばちゃん、霊感が強いんだね〜」
今のところ、社内で真糸のことが見えるのは美波を除いて極少数のようだった。
真糸いわく、街中で時々ものすごく恐ろしいものを見るような目で凝視されることがあるそうだ。実際この世の者ではないのだから、あながち間違いではないが。
「恐らく個人の持つ霊感のレベルによって、僕を認知できるかどうか決まるんだろう。あのおばちゃんは自身の霊感に対して無自覚だったみたいだから、さぞ驚いただろうね」
漫画のように真後ろにひっくり返った清掃業者の女性を思い出し、真糸と美波は揃って吹き出した。
「あ、でも会社に行かないとなると、どこにいます? 私達が離れられる距離も限られてますし」
寝起きの紅茶を飲みながら、美波が尋ねる。
「その事なんだけどね、昨夜少し実験をしてみたんだ」
真糸は心なしか得意げな顔になって、人差し指を立てた。
「実験?」
紅茶によって、美波はだいぶ目が覚めてきた。いつもより身体は重いが、今のところ毎日の出勤準備通りに動けている。
「うん。実は数日に一回、美波ちゃんが夜寝ている間にどれだけ遠くへ行けるかを実験していたんだ。やるなら毎回同じ条件が望ましいからね」
なるほど、と美波は素直に感心した。真糸は風変わりであるが、こういうところはさすが研究者らしい。
「それでね、最初はアパートの前の自販機辺りまでしか行けなかったんだ。直線距離で約10m」
美波は着替えの手を止めずに頷く。
「今はね、どこへでも」
美波の手が止まる。
「……は?」
美波は中途半端にブラウスのボタンに手をかけたまま、こちらに背を向けている真糸の後頭部を見つめた。
「……とは言っても、僕が観測した限りは、ということね? 一応君の会社までは行ってみたけど大丈夫だったよ」
「……って、ちょっと! まだ着替え終わってませんけどっ!」
くるりと振り返った真糸に、美波は抗議する。
「あれ、おかしいな? いつもだったら君の着替えは、クローゼットが閉まって四分三十秒後には終わってるはずなんだけど」
何を数えてるんだ、と飽きれつつ、美波は背中を向けてブラウスのボタンを上まで留める。
「ということは、僕は家で待ってることもできるってわけだね」
「はぅっ……」
耳元で声が聞こえたかと思うと、唇で首筋をなぞられる。思わず上擦った吐息が漏れた。
それだけで満足したのかすぐに離れていく真糸に、美波は物足りなさを感じた。
「ふふっ。まぁ今日は美波ちゃんも風邪気味なことだし、会社の前まで送って行くよ」
笑いをこらえきれずに喉を鳴らす真糸に、美波は熱っぽい頬がもっと熱くなったのを感じた。