幽霊と私の年の差恋愛
二人はびしょ濡れのまま、アパートに転がり込んだ。
美波は扉に鍵をかけると、途端に足の力が抜けて玄関に座り込む。
「……んで……」
「……」
「……なんであんなことしたんですかっ!!?」
全身から雨を滴らせながら、真糸はただ突っ立っていた。
美波は肩を震わせた。自分を守ろうとしてくれたことは分かる。それでも、自分の知っている真糸がいなくなったような錯覚に、強い憤りと恐怖を覚えたのだ。
「……僕達の後をつけていた人物がいた。『佐伯愛佳』と言うそうだよ」
脈絡のない真糸の言葉と、突然出てきた友人の名前に美波は面食らう。
「……はぁっ? な、なんで今、愛佳の名前……」
困惑する美波など関係ないとでも言うように、真糸は心底嫌そうに吐き捨てた。
「君、妊娠してるの?」
「えっ……? あっ……し、してないっ!」
何故真糸がその事を知っているのか、と考え、それで冒頭の愛佳が出てくることに行き着き、美波はしっかりと否定する。
「確かに確証が得られなくて、検査キットは試しました……で、でも、結果は大丈夫でっ……」
美波の言葉に、真糸はため息を吐いた。そのため息の示すところが分からず、美波は口篭る。
「てことはさ、美波ちゃんは、あの男に避妊せずそういう行為をされたの?」
「っ……」
直接的なその表現に、美波は顔を羞恥に染めた。
「ねぇ、そうなの? それともまた違う相手?」
真糸の畳み掛けるような質問に、美波は肯定も否定もできず俯いた。しかし沈黙で逃げることなど許さないとでも言うように、真糸もまただんまりを決め込む。
静寂に耐えかね、美波は観念したように下唇を噛んだ。
「……直接は、覚えてないんです」
美波は掠れた声で呟いた。
「あの日……私が飛び降りた日……。私は将に別れを告げた帰り道、彼の友人達に路地裏へ引きずり込まれました……そのあとは記憶が途切れて……」
そして思い出すのは、廃ビルの屋上で聞いた吐き捨てるように叫ばれた将の言葉。
「『″マワス″だけで逃がすわけない』……それってどういう意味だと思いますか……?」
真糸の瞳が見開かれる。
「何があったかは覚えてない……でも……その言葉を聞いて、決心したんです。あ、もう私、死んじゃおうかなって……」
「……」
絶句する真糸の瞳を、美波は見ることが出来ず俯いた。汚いものを見るような目をしていたらーーーそんな恐怖で、顔を上げることができなかった。
「それで……死のうとしたって?」
低い声で、真糸が呟く。
「それが、僕が命を落とした理由なのか……?」
はっとして、美波は反射的に顔を上げた。そして一瞬の後に、それを後悔した。
「それで僕は、死ななきゃならなかったのか……」
まるで泣きそうな顔で、真糸が美波を見つめていたからだ。
それは軽蔑の瞳を向けられるより、よほど美波の心を抉る表情だった。
「真糸さ」
「世の中は理不尽だ……」
美波の声を遮るように、真糸は吐き捨てた。
「死にたいやつが生き残り、明日の命をも疑わないやつが突然死ぬ……。僕はーーー……」
何故か頭に浮かんだのは、バーを営む親友と、現在その恋人である元交際相手の顔だった。
『真糸』
二人が、優しく微笑みながら、自身の名前を呼ぶシーンだった。
もう自分が二人と共に時間を過ごすことは、ない。
「僕はーーー……まだ生きたかったんだ……」
それだけ告げると、真糸は美波の言葉を待たず、アパートの部屋から出て行った。
カチカチと、秒針が時を刻む音だけが部屋に響く。重い身体を沈み込ませたベッドには、最近知った真糸の香りが微かに残っていた。
美波はアイボリーの寝具に、そっと指を這わせる。
「真糸さん……」
真糸を成仏させたい。
そんな戯言を口にしていた自分を、美波は恥じた。
「真糸さんの心残りは……生きること、そのものだったんだ……」
最後に見た真糸の、悲しみに歪められた表情が忘れられない。
(『じゃあどうして助けたりなんかしたの』って……)
真糸に『生きたかった』と言われた時、咄嗟に言い返しそうになった。
(『私は死にたかったのに』って……)
思わなかったといえば、嘘になる。
(でも……私のせいで、真糸さんが死んだことには変わりないんだ……)
真糸を死なせたことについては、何度も何度も後悔したはずだった。それでも普通に接してくれる彼に、どこか甘えていたのだろうと美波は気付く。
今になって、本当に心の底からあの日を悔やんだ。
「真糸さん……帰ってきてっ……」
美波は祈るように、顔の前で手を組んだ。その手に、涙の雫がいくつも伝う。
「お願い……真糸さん……」
彼が出ていって、もう何時間も経った気分だ。しかし実際には、まだ一時間も経っていない。
彼はどこまでも行けると言っていた。もうここには、戻ってこないのかもしれない。
カツンカツンと遠くから聞こえた、階段を上る足音。
それがどうか真糸であるようにと、美波は願ったーーー。