love*colors
「それにしても──、いつまで続くんですかね?」
テーブルの中央に懐中電灯を転がせた状態で、日南子と向かい合って座る。普段仕事をしている時はさほど気にならなかったが、テーブルが小さいせいで向かい合う距離が思いのほか近い。
「ああ、停電な。近くに落ちたって感じでもなさそうだけどな」
「巽さん」
「ん?」
「さっきの大丈夫でした? 頭」
そう訊ねられて、俺が頭をぶつけたときの事を言っているのだと理解して頭頂部に指先で触れた。小さな痛みと共に指先に皮膚が盛りあがった感触。
「やべ……。コブんなってる」
「えー。ホントですか?」
「……何でちょっと嬉しそうなんだよ」
「触っていいです?」
「──はぁ?!」
「ちょっとだけ」
そう言った日南子がこちらに手を伸ばした。ここで頑なに拒否するのもなんだか大人げないような気がして、日南子のほうへ向かって頭を垂れた。
一瞬の間のあと、フワと頭に彼女の手のひらの感触。「あ。ほんとだ」と小さく言った彼女の手がその頭頂部のコブを撫でた。
「痛いです?」
「しれてるよ、コブくらい」
彼女の問いに俯いたまま答えた。
なんだこれ。ひとまわりも年下の女の子に頭撫でられてるとか。しかも、それがなんだかむず痒くて胸の辺りがザワザワする。
「……」
「巽さん?」
「もういいだろ。なんか恥ずかしーわ」
「え?」
停電していて良かった。懐中電灯の照らすわずかな空間以外は暗闇で良かった。なんか、柄にもない顔を自分がしてるんじゃないかと思うと落ち着かない気持ちになった。
思わず立ち上がった瞬間、パッと店の明りが戻った。急な眩しさに目が慣れるのを待ってゆっくりと目を開けると、日南子がなぜか少し驚いた顔で巽を見つめていた。
「帰るか。──今度こそ送るよ。雨、そんな酷くねぇから歩きでいい?」
そう言って店の裏口に置いてある傘を手に取った。それから日南子が持って帰ると言ってた本を入れる適度な大きさの紙袋を探し出し、店に戻ってそれを袋に入れてやる。
停電が早く復旧すればいいと思っていたはずなのに、いざ元に戻ってみるとそのあっけなさに拍子抜けした気分になった。暗闇で二人きりという状況からも一秒でも早く逃れたいと思っていたはずなのに、こうもあっさりしていると少し惜しいような気さえしてくるから調子が狂う。
「巽さん、見て」
カラカラ……と日南子が表の格子戸を開けると、雨は随分小降りになっていた。
「明日は晴れるといいですね。梅雨明けも近いってニュースで言ってましたよ」
「へぇ」
日南子が小雨の降る空を見上げながら、店の外の傘立てから傘を引きぬいてポンと広げた。傘に付いていた雨粒がパラパラとこちらに飛び散り、お互い顔を見合わせた。
「冷てっ」
「ふふ、」
惜しいと思ったのは、彼女といる妙な心地よさのせい。俺が店を継ぐ前からの常連で、親父たちも彼女をかわいがっていたのをよく知っている。明るくて人懐っこい笑顔を見せてくれて、俺の作った飯を誰よりも美味しそうに食べてくれる。
正直、かわいいと思えないほうが無理がある。
ただ、それは特別な意味が込められたものではない。それは巽自身がよく分かっている。
「んじゃ、行くか」
「はい。すみません、わざわざ送って貰っちゃって」
「なんのなんの。大事な常連さんだしな」
そう言って笑うと、日南子がチラと視線を外した。暗い夜道を彼女とふたり肩を並べて歩く。
小さな肩。さっき咄嗟に彼女を支えたときにも、随分華奢な身体だな──と感じたことを思い出した。
店を出てしばらく歩くと、大通りから一本奥へ入る道へ差しかかる。通りからも見える煉瓦色の五階建のマンションがつい最近知ったばかりの彼女の家だ。その小さな交差点の隅でどちらからともなく足を止めた。
「じゃ、ここで」
「あ。はい」
「あと。これな」
「はい」
そう返事をした日南子に彼女に貸す数冊の本の入った紙袋を手渡した。
「今日はありがとうございました。急に押し掛けちゃってすみませんでした」
「いいって」
「あと、まかないもご馳走様でした」
「あんなんでよければいつでもどーぞ。んじゃ、おやすみ。またな?」
「はい。おやすみなさい」
そう言ってペコと頭を下げてから背中を向けて歩き出した彼女の水玉の傘がくるくると回る。日南子がマンションの前に着いたのを確認して、巽は来た道をゆっくりと戻っていく。
「……おやすみ、か」
普段あまり気にしたこともなかったが、久しぶりに発したその言葉の温かみになんとも言えない気持ちになる。
「おはよう」「おやすみ」かつてそう言い合える愛しい人がいた。彼女との未来が永遠に続いて行くのだと信じて疑いもしなかった。
失うまでは気付かなかった。こんな些細な日常の挨拶を交わせることが、こんなにも温かで幸せなことなのだと。
ポツポツポツ、傘に当たる雨粒が次第に大きくなる。
「げ。まぁた、降ってきやがったよ……」
再び激しくなった雨が素足にサンダルの巽の足をみるみる濡らしていく。
ちょうどいい頃愛で日南子を家に返せてよかった。彼女の纏う柔らかな気配に知らず知らず心癒されながらも、距離感を間違えないようどこか神経を尖らせている。
好ましさは敵だ。
大事なものはもう、失いたくない。失いたくなければ大事なものなど作らなければいい。今の巽にとって大事なものは両親から譲り受けた店を守って行くことだけ──。
* * *
こうした店を営んでいると昔からの常連客の他にもいろんな客がやってくる。
両親たちの代の頃は、それこそ普通のどこにでもある定食屋だったためそう風変わりな客がやって来ることもなかったが、自分の代になり週末夜のバー営業を始めてからはその客層も随分と変化した。
どこかですでに一杯ひっかけて来た若いサラリーマンだったり、青春を謳歌中の大学生だったり。地元のタウン誌に取り上げられたこともあり、流行に敏感な若い女の子たちの来店も増えた。
「らっしゃせぇー」
今夜も店内に威勢のいい富永の声が響く。
「こんばんは」
格子戸開け、暖簾をくぐって顔を見せたのはスーツ姿の若いサラリーマン。「空いてるとこどーぞ」声を掛けると、その若い男はスーツのジャケットを脱ぎカウンターの端に座った。
「らっしゃい。……灰原くん久しぶりだね。仕事帰り?」
「やー。正確には接待帰りです」
「仕事、営業だっけか? 遅くまで大変だなぁー」
「……なんか、今日はいろいろあってどっと疲れました」
彼、灰原森也《はいばらしんや》はこの店の常連客である青野日南子の後輩。以前、日南子に連れられて店に来て以来、家が比較的近いということで月に一度くらいのペースで顔を出す。
「今日、青野さんは……」
「や。来てないよ」
そうなのだ。ここ最近彼女の姿を見ていない。
「珍しいっすね、いつ来てもいるイメージが。つか、俺がここ来ると大概いますよね?」
「ははっ。確かにな」
多い時は週に二日、三日は顔を出してくれているが、ここ二週間ほど顔を見ていない。
あの大雨の日からしばらくして梅雨が明け、本格的な夏に向けて毎日蒸し暑い日が続いているが、よくよく思い起こしてみればあの雨の日以来、朝の通勤時に目の前のバス停で彼女がバスを待つ姿を見掛ける程度だ。
朝、姿を見掛ける限りでは元気そうだし、心配するほどの事ではないが、あれだけ足げく通ってくれていた客の姿がぱったり途絶えるのはやはり寂しいものがある。
「あ。そーいや、この間! ……っつってもだいぶ前だけど。赤松が悪かったな」
「あー、いえ。全然……」
この間、とは以前彼が店に来てくれたとき、友人の赤松が珍しく酷く酔っ払ってたまたま隣に座っていた灰原に絡んでいたことがあった。赤松は普段から酒癖の悪いやつではない。多分、少し前に決まった離婚のことで酷く参っていたのだと思う。
「悪いやつじゃねぇんだよ。ちょっと最近あいつ身辺ゴタゴタしてて……。今度絶対謝らせるから」
「や。いいっすよ。人に絡まれんの仕事柄慣れてるんで。まぁ、人間いろんな時ありますから」
そう言った灰原が笑顔を見せた。営業という仕事柄接待などの機会も多く、手を焼く酔っ払いの扱いにもある程度慣れているのだろう。爽やかな顔でそういう彼の言葉に嫌味なものは感じられない。
この手の男はさぞモテる事だろう。まるでどこかのアイドルのような艶のある肌に文句のつけどころのない整った顔立ち。おまけに愛想もいいときた。事実、店内にいる若い女の子の視線が彼に注がれていることに本人は気付いているのかいないのか。
「ちょっとまえにあれ──、青野さんが白井さんって人連れて来たよ……灰原くんも知ってんだよね?」
「はい。先輩なんすよ。新人時代の店舗研修でお世話になって。美人だけどけっこう強烈キャラじゃなかったすか?」
「あー、そうか? ……でも、思った事ズバズバ言う感じだったな」
「ははっ。つか、青野さんどんだけこの店に人連れて来てんすかね」
確かに職場の人間やら、友人やら、彼女が連れて来てくれた客は少なくはない。
「や。俺的には新規客増えて嬉しい限りだけどねー」
「そのうち、この店青野さんの知り合いで埋まんじゃないすかね?」
「あー。ありえるな、それ」
俺たちは顔を見合わせてクスと笑った。月に一度程度訪れる客とはいえ、日南子のおかげでこれくらいの冗談を言い合える程度にはその仲を深めている。
「あれかなー、青野さん。デート」
灰原がグラスをテーブルに置いて少し楽しそうに微笑んだ。
「へぇ、青ちゃん彼氏できたのか?」
「や。本社で事務の女の子たちがそんな話してんのチラッと小耳に……」
「ははっ。女子はその手の話、敏感だからなー」
「ですね。……えらいイケメンらしいすよ。上手くいってんじゃないすかね」
灰原の言葉になんとなく納得。この間、電話でそれらしき男と話していた時も楽しそうだった。
「そりゃ、いいことだな。青ちゃん、いろいろ頑張ってたみたいだし」
「──ああ、婚活っつって飲み会とか行ってたらしーすね。あ、これは本人に聞きましたけど」
「まぁ、上手くいってんならなによりだな」
「あれ。黒川さん寂しくないんすか?」
「え?」
「や。黒川さん仲いいすよね、青野さんと」
そう言われて手を止めた。
仲、いいのか? 確かに頻繁に顔を見せてくれる彼女に対して、常連客としては少しばかり特別な感情を抱いていることは認めるが。他人の目から見てそのように見えているのだろうか。
「あ。父兄的な意味でっすよ」
「……ああ。そっち」
「そっち、ってどっちだと思ったんすか」
「……だよな」
ははっ、と勘違いを誤魔化すように小さく笑った。
そりゃ、そうだ。ひとまわりも歳の離れたただの店主と客という関係。ましてや、日南子には『お父さんみたい』などと言われた事もある。誰がどう見たって“父兄的意味”だ。
テーブルの中央に懐中電灯を転がせた状態で、日南子と向かい合って座る。普段仕事をしている時はさほど気にならなかったが、テーブルが小さいせいで向かい合う距離が思いのほか近い。
「ああ、停電な。近くに落ちたって感じでもなさそうだけどな」
「巽さん」
「ん?」
「さっきの大丈夫でした? 頭」
そう訊ねられて、俺が頭をぶつけたときの事を言っているのだと理解して頭頂部に指先で触れた。小さな痛みと共に指先に皮膚が盛りあがった感触。
「やべ……。コブんなってる」
「えー。ホントですか?」
「……何でちょっと嬉しそうなんだよ」
「触っていいです?」
「──はぁ?!」
「ちょっとだけ」
そう言った日南子がこちらに手を伸ばした。ここで頑なに拒否するのもなんだか大人げないような気がして、日南子のほうへ向かって頭を垂れた。
一瞬の間のあと、フワと頭に彼女の手のひらの感触。「あ。ほんとだ」と小さく言った彼女の手がその頭頂部のコブを撫でた。
「痛いです?」
「しれてるよ、コブくらい」
彼女の問いに俯いたまま答えた。
なんだこれ。ひとまわりも年下の女の子に頭撫でられてるとか。しかも、それがなんだかむず痒くて胸の辺りがザワザワする。
「……」
「巽さん?」
「もういいだろ。なんか恥ずかしーわ」
「え?」
停電していて良かった。懐中電灯の照らすわずかな空間以外は暗闇で良かった。なんか、柄にもない顔を自分がしてるんじゃないかと思うと落ち着かない気持ちになった。
思わず立ち上がった瞬間、パッと店の明りが戻った。急な眩しさに目が慣れるのを待ってゆっくりと目を開けると、日南子がなぜか少し驚いた顔で巽を見つめていた。
「帰るか。──今度こそ送るよ。雨、そんな酷くねぇから歩きでいい?」
そう言って店の裏口に置いてある傘を手に取った。それから日南子が持って帰ると言ってた本を入れる適度な大きさの紙袋を探し出し、店に戻ってそれを袋に入れてやる。
停電が早く復旧すればいいと思っていたはずなのに、いざ元に戻ってみるとそのあっけなさに拍子抜けした気分になった。暗闇で二人きりという状況からも一秒でも早く逃れたいと思っていたはずなのに、こうもあっさりしていると少し惜しいような気さえしてくるから調子が狂う。
「巽さん、見て」
カラカラ……と日南子が表の格子戸を開けると、雨は随分小降りになっていた。
「明日は晴れるといいですね。梅雨明けも近いってニュースで言ってましたよ」
「へぇ」
日南子が小雨の降る空を見上げながら、店の外の傘立てから傘を引きぬいてポンと広げた。傘に付いていた雨粒がパラパラとこちらに飛び散り、お互い顔を見合わせた。
「冷てっ」
「ふふ、」
惜しいと思ったのは、彼女といる妙な心地よさのせい。俺が店を継ぐ前からの常連で、親父たちも彼女をかわいがっていたのをよく知っている。明るくて人懐っこい笑顔を見せてくれて、俺の作った飯を誰よりも美味しそうに食べてくれる。
正直、かわいいと思えないほうが無理がある。
ただ、それは特別な意味が込められたものではない。それは巽自身がよく分かっている。
「んじゃ、行くか」
「はい。すみません、わざわざ送って貰っちゃって」
「なんのなんの。大事な常連さんだしな」
そう言って笑うと、日南子がチラと視線を外した。暗い夜道を彼女とふたり肩を並べて歩く。
小さな肩。さっき咄嗟に彼女を支えたときにも、随分華奢な身体だな──と感じたことを思い出した。
店を出てしばらく歩くと、大通りから一本奥へ入る道へ差しかかる。通りからも見える煉瓦色の五階建のマンションがつい最近知ったばかりの彼女の家だ。その小さな交差点の隅でどちらからともなく足を止めた。
「じゃ、ここで」
「あ。はい」
「あと。これな」
「はい」
そう返事をした日南子に彼女に貸す数冊の本の入った紙袋を手渡した。
「今日はありがとうございました。急に押し掛けちゃってすみませんでした」
「いいって」
「あと、まかないもご馳走様でした」
「あんなんでよければいつでもどーぞ。んじゃ、おやすみ。またな?」
「はい。おやすみなさい」
そう言ってペコと頭を下げてから背中を向けて歩き出した彼女の水玉の傘がくるくると回る。日南子がマンションの前に着いたのを確認して、巽は来た道をゆっくりと戻っていく。
「……おやすみ、か」
普段あまり気にしたこともなかったが、久しぶりに発したその言葉の温かみになんとも言えない気持ちになる。
「おはよう」「おやすみ」かつてそう言い合える愛しい人がいた。彼女との未来が永遠に続いて行くのだと信じて疑いもしなかった。
失うまでは気付かなかった。こんな些細な日常の挨拶を交わせることが、こんなにも温かで幸せなことなのだと。
ポツポツポツ、傘に当たる雨粒が次第に大きくなる。
「げ。まぁた、降ってきやがったよ……」
再び激しくなった雨が素足にサンダルの巽の足をみるみる濡らしていく。
ちょうどいい頃愛で日南子を家に返せてよかった。彼女の纏う柔らかな気配に知らず知らず心癒されながらも、距離感を間違えないようどこか神経を尖らせている。
好ましさは敵だ。
大事なものはもう、失いたくない。失いたくなければ大事なものなど作らなければいい。今の巽にとって大事なものは両親から譲り受けた店を守って行くことだけ──。
* * *
こうした店を営んでいると昔からの常連客の他にもいろんな客がやってくる。
両親たちの代の頃は、それこそ普通のどこにでもある定食屋だったためそう風変わりな客がやって来ることもなかったが、自分の代になり週末夜のバー営業を始めてからはその客層も随分と変化した。
どこかですでに一杯ひっかけて来た若いサラリーマンだったり、青春を謳歌中の大学生だったり。地元のタウン誌に取り上げられたこともあり、流行に敏感な若い女の子たちの来店も増えた。
「らっしゃせぇー」
今夜も店内に威勢のいい富永の声が響く。
「こんばんは」
格子戸開け、暖簾をくぐって顔を見せたのはスーツ姿の若いサラリーマン。「空いてるとこどーぞ」声を掛けると、その若い男はスーツのジャケットを脱ぎカウンターの端に座った。
「らっしゃい。……灰原くん久しぶりだね。仕事帰り?」
「やー。正確には接待帰りです」
「仕事、営業だっけか? 遅くまで大変だなぁー」
「……なんか、今日はいろいろあってどっと疲れました」
彼、灰原森也《はいばらしんや》はこの店の常連客である青野日南子の後輩。以前、日南子に連れられて店に来て以来、家が比較的近いということで月に一度くらいのペースで顔を出す。
「今日、青野さんは……」
「や。来てないよ」
そうなのだ。ここ最近彼女の姿を見ていない。
「珍しいっすね、いつ来てもいるイメージが。つか、俺がここ来ると大概いますよね?」
「ははっ。確かにな」
多い時は週に二日、三日は顔を出してくれているが、ここ二週間ほど顔を見ていない。
あの大雨の日からしばらくして梅雨が明け、本格的な夏に向けて毎日蒸し暑い日が続いているが、よくよく思い起こしてみればあの雨の日以来、朝の通勤時に目の前のバス停で彼女がバスを待つ姿を見掛ける程度だ。
朝、姿を見掛ける限りでは元気そうだし、心配するほどの事ではないが、あれだけ足げく通ってくれていた客の姿がぱったり途絶えるのはやはり寂しいものがある。
「あ。そーいや、この間! ……っつってもだいぶ前だけど。赤松が悪かったな」
「あー、いえ。全然……」
この間、とは以前彼が店に来てくれたとき、友人の赤松が珍しく酷く酔っ払ってたまたま隣に座っていた灰原に絡んでいたことがあった。赤松は普段から酒癖の悪いやつではない。多分、少し前に決まった離婚のことで酷く参っていたのだと思う。
「悪いやつじゃねぇんだよ。ちょっと最近あいつ身辺ゴタゴタしてて……。今度絶対謝らせるから」
「や。いいっすよ。人に絡まれんの仕事柄慣れてるんで。まぁ、人間いろんな時ありますから」
そう言った灰原が笑顔を見せた。営業という仕事柄接待などの機会も多く、手を焼く酔っ払いの扱いにもある程度慣れているのだろう。爽やかな顔でそういう彼の言葉に嫌味なものは感じられない。
この手の男はさぞモテる事だろう。まるでどこかのアイドルのような艶のある肌に文句のつけどころのない整った顔立ち。おまけに愛想もいいときた。事実、店内にいる若い女の子の視線が彼に注がれていることに本人は気付いているのかいないのか。
「ちょっとまえにあれ──、青野さんが白井さんって人連れて来たよ……灰原くんも知ってんだよね?」
「はい。先輩なんすよ。新人時代の店舗研修でお世話になって。美人だけどけっこう強烈キャラじゃなかったすか?」
「あー、そうか? ……でも、思った事ズバズバ言う感じだったな」
「ははっ。つか、青野さんどんだけこの店に人連れて来てんすかね」
確かに職場の人間やら、友人やら、彼女が連れて来てくれた客は少なくはない。
「や。俺的には新規客増えて嬉しい限りだけどねー」
「そのうち、この店青野さんの知り合いで埋まんじゃないすかね?」
「あー。ありえるな、それ」
俺たちは顔を見合わせてクスと笑った。月に一度程度訪れる客とはいえ、日南子のおかげでこれくらいの冗談を言い合える程度にはその仲を深めている。
「あれかなー、青野さん。デート」
灰原がグラスをテーブルに置いて少し楽しそうに微笑んだ。
「へぇ、青ちゃん彼氏できたのか?」
「や。本社で事務の女の子たちがそんな話してんのチラッと小耳に……」
「ははっ。女子はその手の話、敏感だからなー」
「ですね。……えらいイケメンらしいすよ。上手くいってんじゃないすかね」
灰原の言葉になんとなく納得。この間、電話でそれらしき男と話していた時も楽しそうだった。
「そりゃ、いいことだな。青ちゃん、いろいろ頑張ってたみたいだし」
「──ああ、婚活っつって飲み会とか行ってたらしーすね。あ、これは本人に聞きましたけど」
「まぁ、上手くいってんならなによりだな」
「あれ。黒川さん寂しくないんすか?」
「え?」
「や。黒川さん仲いいすよね、青野さんと」
そう言われて手を止めた。
仲、いいのか? 確かに頻繁に顔を見せてくれる彼女に対して、常連客としては少しばかり特別な感情を抱いていることは認めるが。他人の目から見てそのように見えているのだろうか。
「あ。父兄的な意味でっすよ」
「……ああ。そっち」
「そっち、ってどっちだと思ったんすか」
「……だよな」
ははっ、と勘違いを誤魔化すように小さく笑った。
そりゃ、そうだ。ひとまわりも歳の離れたただの店主と客という関係。ましてや、日南子には『お父さんみたい』などと言われた事もある。誰がどう見たって“父兄的意味”だ。