love*colors
「とりあえず、そーゆーことで」
そう言った彼が日南子の方へ手を伸ばし、肩に掛けられたシャツのずれを直すようにその襟元にそっと手を添える。彼が日南子を真っ直ぐに見つめた。
「寒くない?」
「……うん、ありがとう」
そう頷いた瞬間、日南子の前に影が差す。ふと顔を上げると、山吹の顔が目の前にあった。
誰もいない静かな館内。キラキラと揺らめく水槽。その水槽の光を受けた山吹の綺麗な顔がだんだんと近づいてくる事実に、その先に起こることが恋愛偏差値底辺値の日南子にもなんとなく想像ができた。
これ、漫画とかでよくある──、と思った瞬間、すぐ目の前まで迫っていた山吹の身体を咄嗟に押し返していた。
「……あ、ごめ、」
「……ううん、私こそ……」
なぜ咄嗟に押し返してしまったのだろう。
「……ごめん、調子乗った」
「私こそ、つい……ごめんね」
つい、避けたのは何故だろう。
ある意味、夢見てたような最高のシチュエーションだったはずだ。いいな、と思っている男性に告白に近い好意を示されて、初めてデートした水族館で最高の雰囲気で──、のはずなのに。
「もう閉館時間だ。そろそろ行こう」
「あ、うん」
「本当ごめん。今のナシ。ちゃんと待つから……」
「うん」
彼が取ってくれた手を、そっと握り返した。
そのあとの彼は、まるで何事もなかったかのようにいつも通り明るく振る舞ってくれた。日南子もそんな彼の気遣いに応えるように、次から次へと話題を変え、いろいろな話をした。
デートは最高だった。彼が、家の前まで送ってくれて「さよなら。またね」って言い合ったその最後の最後まで楽しい時間を過ごした。
山吹の言葉や行動にドキドキとした高鳴る気持ちを抱えながらも、あの時未遂で済んだことにどこかほっとしていた。
彼が怖かったんじゃない。キスが怖かったんじゃない。
なのに、どうして避けてしまったのか。
考えても考えても、日南子にはよく分からなかった。
* * *
「もー、外超暑いんだけどー!」
遅番の休憩室。近所のコンビニへ昼食を買いに出ていた雪美が片手にビニル袋を提げ、額を手でヒラヒラと仰ぎながら戻ってきた。
「あ。おかえりなさーい」
ちょうど手製の弁当を広げたばかりの日南子がそんな雪美に答えた。テレビのチャンネルをいつも雪美と休憩に入るときに観ている番組に合わせ、たまたまタイミング良くやっていた天気予報の現在の気温をチェックする。
「今日、三十度だって。暑いわけですねぇ……」
「見て青野。お昼、冷やし中華にしちゃったー」
「あー、いいですね!」
こんな暑い日には、ぴったりの昼食だ。
隣に座った雪美も買ってきた弁当を開けて手を合わせたので、日南子もそのタイミングに合わせるように「いただきます」と小さく手を合わせた。
「つか。今日も荷物半端なく多いよね」
「まぁ。……夏休みまえですからねー」
七月半ば。来週末あたりから近隣の学校が揃って夏休みに入る。夏休みと言えば、期間中にこなさなければならない宿題の類の材料を買いに訪れる学生客がどどんと増える。
もちろん、こちらもそれに合わせた商品の入荷があるわけで、毎年この時期は大量の段ボール箱で届く荷物の品出しやコーナー作り、セール準備に追われ大忙しだ。
「こう忙しいと、飲みに行くのもアレよね」
「そーですね。もう、仕事終わったら速攻帰って寝たい、っていうか」
「とか何とか言って、青野はちゃんとデートしてんでしょ? 山吹くんと。──その後、順調?」
「はい。まぁ、それなりに。……ていうか、雪美さんこそどうなんですか? 鈴木さん……でしたっけ?パーティーで、カップルになった……」
そう訊ねると、雪美が麺をすすりながら小さく首を振った。
「アレは、──ダメだった」
「え?」
「初デートで、食事行ったわけ。そこまではまぁ普通よ。問題はそのあと!! いきなり部屋連れこもうとすんのよ?! アタシだって子供じゃないけどさ、さすがにそれはなくない?!」
「……うわぁ」
「しかも、プレゼント渡すだけだからー、とか言って! 渡すだけなら外まで持ってこいっつうの! 部屋上げて疾しいことしようとしてんの見え見えじゃん? さすがに引いてさー」
世の中の男女交際というものの進行具合の一般的レベルがどの程度かいまいちよく分からない日南子にも、さすがにそれが非常識な事だと言うのは理解できる。
そもそも、初めてデートする相手と食事に行くだけでも緊張するのに、いきなり相手の部屋など、初期装備のままラスボスと戦うようなものだ。日南子なら、脱兎のごとく逃げ帰って来るだろう。
「──それで。雪美さんどうしたんですか?」
「そりゃ、そのまま帰って来たわよ。パーティーのときは紳士的に見えたのに、頭ん中はソレかよ、って」
「……そうなんですね」
雪美はどちらかといえは派手な美人だ。過去に参加したちょっとした飲み会の席でももあからさまで直接的な誘いを何度か受けたことがあると言っていた。
「そのあとも何回かメール来たんだけど、……まぁ、相手の機嫌を損ねないように丁重にお断りしたわよ。だから、いまは全然。まさか、たった一回のデートでこんな事になるとは思わなかったけど」
「じゃあ、田上さんとは?」
田上さん、とは山吹の先輩で、あのパーティーの時山吹と一緒にいた男性だ。確か雪美自身が、帰り際連絡先を訊かれたと言っていた。
「田上さんとは、飲み友。二回くらい飲みに行ったよ?」
「付き合っては──?」
「あー、それはないない! 友達よ、トーモーダーチ。今度飲み会開いてって頼まれてるくらいだもん」
「……そうなんですか」
同じ場所で、同じタイミングで出会って。片方は恋人候補、片方は友達。そこに一体どんな違いがあったのだろうか。
世の中にはそれこそ星の数ほどの異性がいるのにもかかわらず、その中のたった一人の人をどうやって見つけ出すのだろう。
漫画やドラマだったら、事は簡単だ。最初からある程度“相手役”もしくはその候補が絞られていて、その中から見つけ出せばいい。
けれど、漫画でもドラマでもない現実世界で、どうやって自分の恋物語の相手を見分けることができるのだろう。
「青野こそ、山吹くんどう? 田上さんが言うには、真面目でいい後輩だって言ってたよー」
「……うん。確かにいい人です」
話していても楽しいし、よく気が利くし、優しいし、私にはもったいないくらいの人だ。と日南子は思っている。もし、彼が望むように、このまま付き合うことになったとしてもきっと彼は日南子を大事にしてくれるだろう。
けれど、彼は本当に私の“相手役”なのだろうか?
よく結婚相手に出会ったとき、大抵の人はビビッと来たとか──何か特別なものを感じたなんて話を聞く。もちろん、誰もがそうだとは言わないが、自分にとって特別な人に出会ったときくらいはそのくらいのインパクトがあればと思う。
でなければ元々恋愛に疎い日南子などには、その相手に出会ったとしてもそれに気づくことさえ難しい。
「……山吹くんの事、好きなのかなぁ、私」
ぼそ、と呟くと雪美がテレビを消してこちらを見た。
「あはは。好きなのかなぁ……って、自分のことでしょう?」
「そうなんですけど」
「まぁ。確かに自分から好きになった時は分かりやすいけど、相手に先に好意を示された場合は、自分の感情が相手のそれに追いつかないって事はあるよね。徐々に好きになるっていうのもそこに至るまでは人それぞれだし」
「……」
日南子の抱えているもやもやした感じは、まさに雪美の言ったそれなのだろうか。
あの日、山吹は自分の気持ちを言葉にして伝えてくれた。──もちろん嬉しいという気持ちが湧きあがったのは事実。けれど、それに対する戸惑いもないわけじゃない。
あの時、近づいてくる山吹の身体を押し返してしまった。
怖さとか、嫌悪感があったわけじゃないはずなのに、咄嗟に身体が動いていた。それはただ、日南子がそう言うことに慣れていないだけだったのか──。
「青野。もうそろそろ時間だよ」
そう声を掛けられて休憩室の壁に掛けられた時計を見ると、アナログ時計の針は午後一時四十分を差していた。
日南子も雪美も慌ててテーブルの上を片付け立ち上がると、休憩室の奥にあるロッカーへ向かう。休憩室の奥は、女性社員の更衣室も兼ねていて、そこはパーテーションによって仕切られている。
「雪美さん、“くろかわ”のバイトの男の子覚えてます?」
歯磨きを済ませて化粧直しをしながら雪美に訊ねた。
「ああ。あの学生の男の子?」
「はい。あの富永くんが、雪美さんまた連れて来てくださいって」
「あはは。なになに? アタシ、気に入られちゃってるー?」
雪美が冗談交じりに訊ねた。
「彼、雪美さんのこと気になってるみたいですよ」
「はは。嬉しいけど、年下はねぇー。しかも学生でしょう? さすがに抵抗あるわー」
以前、巽の言っていた通りだ。実際、日南子が雪美の立場だったとしても同じことを思う。
ただ単に年齢だけのことではない。学生と社会人ではその立場も価値観も全く違う。まして、将来に向けてそれなりの相手を探している時に、富永のような存在は問題外である。
「──ですよね」
「あと五年若かったら違ってたかもね」
「分かる気がします。実を言うと……雪美さんに彼氏いるのか聞いといてって言われてて」
「あー。だから、田上さんの事まで食い下がってきたんだ。青野にしちゃ珍しいと思ったんだよねー」
雪美が納得したように日南子を見た。
「……すいません」
「あんたが謝ることじゃないしょーよ? つか、青野! マジ遅れる!」
腕時計をみるとあれから十分は過ぎている。バタン、と勢いよくロッカーを閉め、休憩室をあとにした。
「さて、午後も張り切って仕事しますかー」
「私、ホクヨの荷物開けます」
「うん。任せた」
仕事とプライベートの切り替えは大切。気持ちを仕事モードに切り替えやるべきことを責任持ってこなす。それが社会人いうものだ。