love*colors

 次の日、仕事帰りに“くろかわ”に寄ると、カウンターのところで巽や富永、近所の中年の女性とが何やら話をしていた。日南子自身、彼女と話したことがあるわけではないが、何度か店で顔を見たことがある。どうやら回覧板の受け渡しの途中で話しこんでいるらしく、その女性の胸には回覧板が抱えられたままだ。

「あの。こんばんはー」
「おう。おかえり」

 日南子に気づいた巽がこちらを見、それにつられるように富永と女性もこちらを向いた。
 話しの途中であった中年女性が、日南子の顔を見て「あ! ──あなたも近所の方?」と少し眉を寄せながら訊ねた。

「はい。すぐ近くに住んで……」

 日南子が答え終わらないうちに、彼女が日南子のところへ近づいて来た。

「あなたも昨日変な中年の男見なかった? ほら、あちこちで女の人に変な事してるって男いるでしょう!」

 先日ふく子や巽に聞いた話。市の防災メールなどでも情報の配信がされているらしく、やはり話題にはなっているようだ。

「昨日、出たらしいのよ! うちの娘の同級生が学校の部活帰りに細道で後ろから!! 幸い、驚いて大声出したら近所の人が出てきてくれて事なきをえたらしいんだけど……」
「……ええっ、」

 日南子が驚いて目を見開くと、巽がそういう訳だ、というように目配せをした。

「あなたも気をつけてね! ちなみに昨日の男、歳は三十代くらい。中肉中背、濃いグレーのパーカーにジーンズって格好だったらしいわよ」

 その言葉を聞いて日南子が思わず「あっ!」と声をあげたのは、その背格好の男に見覚えがあったからだ。

「……青ちゃん、どうした?」
「私、昨日その男の人見たかも……。時間は七時ちょっと前くらいだったと思うんですけど」

 日南子が仕事を終えて、駅からバスにのってこのバス停に着いたのはちょうどそれくらいの時間帯。日南子を不自然に後ろから追い抜いて行った男はグレーのパーカーを目深に被り、下は確かジーンズ姿だった。ハッキリとした確証が有るわけではないが、彼女のいう男と酷似している気がする。

「「はあっ?!」」

 日南子の言葉を受け、その場にいた巽たちが一斉に日南子を凝視した。その反応はある意味当然の事。事件の犯人らしき人物を見掛けたなどと言えば驚くのも無理はない。

「あのっ、わ、私はなんともなくて……! 後ろからちょっと不自然な感じで近づかれただけで……」

 日南子が言うと、巽とその女性が顔を見合わせた。

「やだ! そいつよ、きっと!! その女の子が襲われそうになったの、七時ちょっと過ぎだったっていうから」

 その言葉を聞いて、ふいに血の気が引くのを感じた。──あの時、何らかの要因で日南子は被害者にならずに済んだが、一歩間違えればそうなっていた可能性が極めて高かったということだ。

「え、じゃあ……もしかして青野さんも危なかったってことすか?!」
「……マジかよ」
「……っ、」

 改めて昨日の出来事を思い起こしてみた。確かに不自然な距離ではあったし、あの時何かされそうになってたかもしれないと思ったら日南子の背中がゾクリと震えた。

   *

「……なんか、いつもすみません」
「ははっ。こんなんお安い御用だって」

 コツコツとパンプスの音を響かせ、店の前の大通りを巽と並んで歩いている。

 食事を終えて一息ついた頃、店内にはあと一組の客が残っているだけだった。どうやら会社帰りのОLらしく、すでに食事を終えて、食後に出されたお茶を飲みながら皆で談笑していた。
 ラストオーダーの時間も迫り、もう来客も見込めないと判断した巽が、富永に店番を頼み日南子をマンションまで送ってくれている。
 昨日の今日で夜道を一人で歩くことに少し心細さを感じていたが、そこは巽が先回りして気を利かせてくれた。 特に「送るよ」と言うワケでもなく、日南子が席を立って会計を済ませたのと同時に「ちょい煙草買って来るわ」と富永に言ってさりげなく店を出るあたり、そのスマートさが改めて大人だな、と思う。
 
「犯人。早く捕まるといいのにな」
「……本当ですよね」
「それにしても未遂で良かったよ」
 
 確かにそうだ。知らない男に後ろから抱きしめられたり、身体を触られるなど、考えただけで鳥肌ものだ。

「私、ふいに気配感じて咄嗟に振り向いたんですよ」
「ああ。じゃあ、それが良かったのかもな」
「え?」
「後ろから近付いて、急に振り向かれたから向こうも一瞬ビビるだろ。それで未遂で済んだのかもしんねーしな。何にしろ、捕まるまでは気をつけねぇと。最近、この辺で頻繁に起こるのは犯人が実はこの辺のヤツかもって話も出てるしな。土地勘あるトコのほうが、狙いやすいとか」
「……ますます怖い」

 そう呟いてブルっと身体を震わせながら肩をさすると、巽がポケットからスマホを取り出した。

「青ちゃん、番号」
「え?」
「携帯」

 言われるまま自分の携帯番号を伝えると、それと同時に巽がスマホをタップし、少し遅れて日南子のバックの中のスマホがピリリリ、と鳴った。

「今掛けた番号、俺んだから。何かあったら掛けて来な。なんつーか、“緊急用”だな」
「え?」
「──まぁ、店あるし。毎日送ってやるってわけにはいかないけど、何かあれば助けてやれるくらいには近所だし」
「……」

 それは、もし日南子に何かあったら、直ぐ様駆けつけてくれる意志が巽にあるということだろうか。

「遠慮はすんな? オッサンだからゼェゼェしながら駆けつけるかもしんねーけど、そこは勘弁な?」

 巽がハハ、と白い歯を見せて笑った。その笑顔になぜだか胸がギュギュっとなる。
 頼ってもいいんだ。何かあったらこの人に頼ってもいいんだ。そう思ったら、なんだかすごく心強い気がした。 そんな巽の姿を想像してみる。息を切らせて、肩を上下させて、なんなら汗なんかかいてて──、そんなふうにして駆けつけてもらえるのかな、なんてことを思ったらなぜか胸が高鳴った。

「──それ、すごく嬉しいです!」

 まさに、思考と直結とはこのことだ。思ったことが、そのまま口をついて出た。あまりにも張り切った感じで言ってしまったのでさすがに気恥ずかしくなって口元を押さえると、驚いた顔の巽と目があった。

「──っは、ははっ!」

 まるで吹き出したように笑ったその顔が次第に緩んでクシャクシャになる。

「なんで笑うんですかー?」
「いや。なんでも……、っつーか、まいる」
「ちょっ……、なにがです?」
「やー。こっちの話」
「もう! 人の顔見て笑うとか巽さん酷い」
「悪りぃ、悪りぃ」

 自分がなぜ笑われたのかはよく分からなかったけれど、目尻を皺だらけにして楽しそうに笑う巽をみていたら、日南子もそれにつられてしまった。

「それじゃあな。おやすみ」

 道のりはあっという間。気づけばいつのまにかマンションの目の前まで来ていた。

「ありがとうございました。おやすみなさい」
「おー。またな」

 そう返事をする頃にはすでに巽は来た道を足早に引き返していた。それもそのはず、ラストオーダーの時間は過ぎているとはいえ、営業中の店を抜けてわざわざここまで送ってくれてたのだから。
 煙草を買いに行くと店を出て来た巽だが、大通りまで出るとコンビニの方へは行かず、真っ直ぐ店の方へと戻って行った。

「……嘘つき。煙草じゃないじゃん」

 呟きながら頬が緩む。嘘つきだけれど、彼の嘘はとても優しい。

「おやすみなさい」
 
 すでに姿の見えなくなった巽に向かって呟いた。

 優しい嘘。大きな手。美味しい料理。彼のくれるものはいつも温かく日南子の心を満たす。
 ただの店の常連客。たったそれだけの関係である人間にこんなにも温かいのならば、彼の懐に踏み込めたらこれ以上どんな優しさをくれるのだろう。
 知ろう、じゃなくて知りたい。そんな欲が出る。この感情は単なる興味? それとも──?


   *  *  *
 

 そうしているうちに世間はお盆休みを迎え、その週末に行われたセールも大盛況だった。
 開店と同時にお客が押し寄せ、大型連休を見越して大量に仕入れておいた文房具──、主に夏休みの宿題などに関わるものが飛ぶように売れて行く。
 おかげで売り上げは好調。今月最高の売り上げを記録した。

「──っ、疲れたぁ」

 レジに入れば、怒涛のように押し寄せてくるお客の波を延々さばくことになり、フロアに出れば欠品商品の品出しに追われ、それが済むとまた接客と休む暇もない。
 朝から晩まで、せわしなく店内を動き回り、セールの片づけを終えた頃には社員全員がほぼ屍《しかばね》と化していた。

「お疲れー、また明日」
「お疲れ様でーす」

 休憩室で着替えを済ませ、皆それぞれに家路につく。普段ならセールのあとに社員そろっての打ち上げがあるのだが、今月は最終週にも最後のセールが控えている為、すべてはそれが終わった後だ。

 駅のターミナルでバスを待っているところへバックの中のスマホが震え、日南子はそれを手に取った。

「──もしもし?」
『あ、青野さん。仕事、お疲れ。……あれから体調、少しは良くなった』

 役所勤めの山吹は先週末から大型連休に入り、今日がその最終日。今週デートの約束をしていたのだが、連日の猛暑に夏バテ気味だったのか日南子の体調がすぐれなかったため、その予定が流れていた。

「あ──、うん。なんとか。まだ本調子じゃないけど、それなりに元気」
『じゃあ── 、あ。……でもまだ本調子じゃないならアレか』

 山吹が何を言おうとしているのかは、なんとなく想像がついた。もし体調が戻ったら今夜食事でも、という約束をしていたのだ。彼が言葉を言い淀んだのは、多分体調が万全ではない日南子に気を使ってくれているからだ。

「あ、うん。今日、すごく忙しかったのもあって疲れてて──、会うのはまた今度でも大丈夫?」
『──そっか、そうだな。会いたかったけど……ごめん、またにしよう』
「うん。ごめんね。また連絡する」

 山吹は、何かを強引に進めようとする人ではない。どんな時も日南子の気持ちを優先してくれる。
 会いたかったと言って貰えて嬉しい気持ちに嘘はないのに、以前ほど心が弾まないのは、日南子の心の中にいつの間にかそれを比較する対象ができてしまったから。
 けれど、それを今の時点で山吹に説明出来るだけの判断材料がそろっていない。この曖昧で、だけど見過ごすことのできない、胸に閊《つか》えるような感情の正体が分かれば少しはらくになれるのだろうか。




 
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