love*colors
【4】黒川 巽の場合②
「うーっす」
盆休み明けの営業日。
いつものようにほぼ閉店間際に顔を出したのは元同僚であり、友人の赤松。店に入るなり、スーツを脱ぎ、いつもの場所に座ると不服そうな顔を見せる。
「んだよ、その顔ぉー。もうちょい嬉しそうな顔しろや」
「……嬉しくねぇのに嬉しい顔できっか、アホ」
あからさまに嫌な顔をしてやるのは、まぁ半分ポーズのようなもの。本気で嫌がっているわけではない。店にはもう赤松の他に客はいない。随分前に最後の客が帰り、つい今しがたバイトの富永も帰したところだ。
「とりあえず、これな」
そう言って赤松の為におしぼりとビールをカウンターに用意する。
チラと時計を見やり、ラストオーダーの時間が過ぎたことを確認すると、巽は表の暖簾を下ろしに外に出た。表の通りはすっかり車通りも少なくなっている。辺りに不審な人物がいないか確認するのがここ最近の習慣になっている。
店に戻るとカウンターの上以外の店内の照明を落とし、自分もグラスにビールを用意してすでに半分ほどに中身の減っている赤松のグラスにコツンとグラスを重ねてからそれを一気に喉に流し込んだ。
「ふ、は」
仕事の後の一杯は格別旨い。
「先週、休み取ってたんだな。何だよ、優雅に夏休みってか?」
「まぁな」
「……今年も行ってたのか?」
そう訊ねた赤松がグラスを弄ぶように揺らす。
「ああ。墓参りがてら、あいつの実家顔出して線香上げさしてもらって……」
「律儀なこった」
「──俺がしたくてやってんだよ」
夏になるとあの時の記憶が鮮明に蘇る。
「もう、三年か……」
「ああ」
時間は止まらない。こうしている間にも時は刻々と流れて行くのに、あの時の記憶だけは今でも鮮明に思い出す。
愛する女を失った夏。心だけはまだあの夏に置き去りのままだ。将来を意識し合い、まさに未来へと動き出す──、寸前でそれを断たれた。
「亜紀が生きてたら、ここにあいつも立ってたのかな」
「──さぁな」
「おまえらの子供とかここチョロチョロしてたのかもな」
「……はは」
あんな事がなければ、それも現実にありえたかもしれない。考えても仕方のない事だとは分かっている。悔んだところで過去に戻れるわけじゃない。ましてや、過去をやり直すことなどなどできるはずもないのだから。
「おまえのほうは?」
「ああ。つつがなく」
何が、などと聞かずとも分かり合える。その程度には長く深い付き合いをしているつもりだ。
「離婚届も出して、晴れてバツイチ一人身よ」
「あのマンション、一人は広過ぎんだろ」
「まぁな。……なんならおまえ越してくる?」
「アホ。何が悲しくておまえと住まにゃなんねーんだっての」
「冗談に決まってんだろー」
七年連れ添った夫婦のあっけない結末。巽から見れば、仲睦まじく似合いの夫婦だった。どこでどんなふうに歯車が狂ってしまったのだろう。
ただ、何事も永遠ではない、ということは巽自身が身を持って知っている。ある日突然大切なものを失うこともある。
想いだけではどうしようもないこともある。
そんな現実、知らないまま生きていけたら良かったのに──。
* * *
繰り返し見る夢がある。
朝起きると、それはそれは酷い暑さで、寝起きの俺は身体中に汗をかいていた。あまりの暑さにベッドからキッチンに直行し、冷蔵庫から冷たい水を取り出して一気に半分ほど飲み干した。
ぼんやりとした頭でリビングのテレビをつけると、ちょうど朝の情報番組の時間帯。画面には大型バスが高速道路の防音壁にぶつかって大破している映像が映っていた。
≪今朝、午前四時二分ごろ、京都府の第二京阪高層道路下り線で、静岡発・三宮行き高速バスが前のトラックに追突。計五台が絡む玉突き事故になり、バスの乗客ら十名が病院に搬送されたということです。……なお、バスの乗客のうち三人が死亡。七名が重軽傷、バスを運転していた運転手も重症ということです≫
あまり抑揚のないアナウンサーの声。
≪──なお、死亡が確認された三名は、静岡県浜松市在住の金野亜紀さん……静岡市在住の秦野康文さん……≫
「……亜、紀?」
あまりにも聞き覚えのある名前に、手にしたペットボトルが床に落ち、その口から水が溢れ出て床を濡らす。冷たい水が自分の足を濡らしていることも気づかないくらいただ呆然とテレビの画面を見つめていると急に息が苦しくなる──。
* * *
ハッと目覚めて弾かれるように起きあがると、そこは夢の中の景色とは全く異なる。当時住んでいた部屋の真っ白い壁も見えなければ、悪夢のようなニュースも聞こえない。
見上げた天井には昔ながらの和式の吊り照明。壁の本棚には見慣れた本の山。今自分がいるのが、住み慣れた実家であることにホッとして息を吐いた。
「……またか」
もう何十回と繰り返し見た夢。夢の途中でいつも身体が動かなくなってしまうのだ。
まるで身体全体が金縛りにでもあっているかのようで、もがいてももがいてもそこから動き出すことができない。息が苦しくて次第に強くなる窒息感に狂ったように暴れ、限界を感じた瞬間、──目覚める。
額は汗にまみれ、寝まき代わりにしているティーシャツも汗に濡れすっかり色が変わっている。
深呼吸をし、動悸が鎮まるのを待ってびしょ濡れのティーシャツを脱いだ。脱いだ服を片手に階下に降り、洗面所で顔を洗うために蛇口を捻る。起きぬけの顔には、涙の跡。
いい歳の大人が、夢を見て泣いて目覚めるなどと──、自嘲気味に笑ってからその涙の跡を冷たい水で洗い流した。
*
恋人の亜紀を失ったのは三年前。高速バスの事故だった。
職場の夏休みを利用して彼女の両親に結婚の挨拶をしに行く矢先の事だった。当時抱えていた仕事の都合で、亜紀に数日遅れる形で夏休みを迎える巽と、帰省ついでに地元の同窓会に参加することになっていた彼女とは別々に現地に向かう事になっていた。
学生の頃、彼女はよく高速バスを使って帰省していたという。あの夏もそうやって──。
初めて彼女の実家を訪れたのは、彼女の葬儀の日だった。
こんな形で彼女の家族と対面することになろうとは。
どうして彼女だったのだろう。
あの高速バスには三十二人の乗客が乗っていた。事故が避けられなかったのだとしても、どうして死ぬのが彼女だったのだろう。どうして他の誰かじゃなかったのだろう。そう何度あの事故を呪ったか分からない。
月日が経てば、当時の生々しいほどの怒りややるせなさは少しずつ薄れて行った。
けれど、消えることはない。行き場を失くした想いはいまだ巽の胸の奥を彷徨ったままだ。
*
朝食を済ませ昼の仕込みをしていると、通りに人通りや車通りが増えて来るのはちょうど通勤時間帯。学生がお喋りをしながら自転車で店の前を通り過ぎていく姿を窓越しに眺める。
自分にもあんな時代があったな、と時折感慨にふけったりもするが、巽は今の自分の生活が嫌いではない。
子供の頃からの夢だった自分の親の店を継ぎ、昔からの馴染みの客とともに笑って過ごす。
彼女に捧げるはずだった愛を、店に来てくれた客たちに分ける。自分の料理で誰かが幸せな気持ちになってくれるのなら、それだけで巽がここにいる価値がある。
ふと窓の外を見ると、見慣れた後ろ姿。店の前のバス停でバスを待っている青野日南子の姿。彼女の存在は時に、巽の心を揺り動かす。
ただの、常連客。そう言ってしまえば確かにそれで片付けられてしまう関係なのだが、それ以上の何か──。
──あの夜も、そうだった。
不審者に追われ、震える声で巽に助けを求めて来た夜。気丈に振る舞ってはいたものの、ふいに感情が緩んだのか巽の目の前でまるで子供のように泣いた。
思わず抱き寄せた震える肩がとても小さくて、すがるようにシャツを掴む指がとても細く頼りなくて、なんとも言えない感情が湧きあがったのを覚えている。
「……」
守れて良かった。
大事なものはこれ以上傷つけたくない。失いたくもない。
彼女にとってはたまたま都合が良かったのだと思う。自宅付近で危うい目にあって、たまたま近くに住んでいる巽に助けを求めた。ただ、それだけの事。
「……ま。所詮、俺なんざ“お父さん”レベルだしな」
あんなに必死で走ったのは久しぶりの事だった。年甲斐もなく、まさに全力疾走。彼女の元に辿り着いたときの、息の上がりっぷりや、全身の汗の具合などは、いま思い出しても失笑モンだ。
「必死過ぎんだろ……」
思い出してまた苦笑する。
ただ、過去に失ってしまったものが大きかった分、自分の手で守れるものがあるのなら守りたい。それがただの常連客であろうと。
* * *
久しぶりに日南子が店に顔を出したのは八月も最終の週末だった。
最後に会ったあの夜から約二週間。普段の彼女の店に顔を出す頻度から考えると随分久しぶりだ。
「こんばんはー」
「おう、おかえり。ちょい久々じゃね?」
いつものように声を掛けると、日南子の動きが一瞬止まった。訝しげにその様子を見つめると、なぜかぎくしゃくとした動きのまま彼女は自身のお気に入りの席へ腰を掛けた。
「どうしてた? ……アレか、セールとかで?」
「……ふぇっ、あ。はい、そ、そうです」
「……」
ふぇっ、って何だ。ふぇって、と普段なら突っ込んでいるところだが、この可笑しな動きがさらに酷くなるのも見るに堪えないと思い、敢えてその言葉を飲み込んだ。
「やっと連続セール終わったんです」
「そりゃ、お疲れだな。とりあえず、ビール?」
「あ、はいっ!」
「飯は?」
「もちろん食べます! 日替わり何ですか?」
「今夜は旨い刺身がある」
その言葉に日南子が目を輝かせた。
「じゃあ、それで」
ふふ、と嬉しそうに微笑んだ顔がようやく普段の彼女らしくなった。グラスにビールを注いで彼女の前に置くと、いそいそとおしぼりで手を拭いてからグラスに手を伸ばす。
「いただきます」と小さく呟いて一気にそれを喉へ流し込む姿は年頃の娘にしては大分豪快な気もするが「はぁ」と満足げに息をつくその顔がなんとも幸せそうで、こちらまで笑ってしまう。
「いい飲みっぷりだなー」
幸せの伝染、とでも言うのだろうか。店にはたくさんの客が来るが、こういう雰囲気を纏う客は結構貴重だ。両親が彼女を特別気に掛けていたのも、そういう理由があったのかもしれない。