love*colors
「何かいいのあった?」
「あ、はい。……このへん借りちゃってもいいですか?」

 壁際の本棚の前で日南子が手にしているのは、巽が買い集めた人気作家のシリーズものだ。こうした読みモノの趣味が似ていることにも妙な親近感を覚える。

「随分迷ってたみたいだな」
「いろいろあってあれもこれも……ってなっちゃって」
「遠慮しないで、気になんのごっそり持ってきゃいいのに」
「うん……でも、またにします」
「そっか。んじゃ、そろそろ行くか」
「はい」

 巽が促すと、本を抱えた日南子がそれに続く。彼女がふと古いチェストの前で立ち止まった事にハッとした。チェストの上には不自然に伏せられた写真立て。それをまともに飾っておくには未だ胸の奥が痛み、完全に目につかないところにしまいこむほどには忘れたくない。

「行こう」

 まだ他人には触れられたくなくて、巽は日南子をこちらに促すようにに部屋の電気を消した。

「足下気をつけな。今度はコケんなよ?」

 以前彼女がここで足を滑らせたときの事を思い出して注意すると、

「大丈夫ですってば! ……今日は停電してないですし」

 日南子がその時のことを思い出したように唇を尖らせながら反論した。
 こういう反応もなんとも予想通りだ。いい意味で予想を裏切らない。真面目で真っ直ぐで、感情がストレート。こういうところに彼女の彼氏も惹かれたのだろうか。

「そーいや、彼氏と仲良くやってんの? 紹介してくれるっつったのどーしたよ?」

 そう訊ねたのは何気なく。振り返りながら日南子を見つめると、彼女の目がなぜか左右に泳いだ。また余計なことを言ったかと思い、困惑しながら頭を掻く。
 昔から空気の読めないほうではなかったと自負しているが、最近の若い子の地雷はよく分かりにくい。たわいのない会話のつもりで訊ねたのだがあまり適した質問ではなかったらしい。

「や。わり。……言いたくないならいい。俺が訊くことじゃねぇしな」
「……」

 黙ったままの日南子から本を受け取り、持ち運びやすいように小さな手下げ袋に入れてやる。「ほい」とそれを手渡すと彼女が黙って袋を受け取った。

「──彼とは、ダメになっちゃいました」
「え、」

 日南子の言葉に巽はしまったと顔を歪める。思いっきりど真ん中の地雷じゃねぇか。
 オッサンになるとデリカシーというものまで無くなるのか、といたたまれない気持ちになって「ごめん」と小さく頭を下げた。

「いいんです。……私が悪かったので」
「……」

 ここで、どうして? と訊くのは無粋というものだろう。まぁ、人にはそれぞれ考えがあるだろうし、やはり上手く行くこともあれば行かない事もあるのだ。

「そっか。──まぁ、なんだ……青ちゃんいい子だし、また次あるしな」

 繋いだ言葉が苦し紛れでへこむ。いい歳して気の利いた励ましの言葉も掛けてやれないとは。実際、次などいくらでもあるだろう。彼女はまだ若いし、この先いくらでもいい男と出会えるチャンスがある。

「あんま、気ぃ落とすなよ?」

 そう言って無意識に彼女の頭に伸ばしかけた手を、その寸前で引っ込めた。こうして何気なく彼女に触れるのこそ、デリカシーに欠けるのだろうと行き場を失った宙に浮いた手を誤魔化すようにズレかけた眼鏡を直す。

「ほら、遅くなるから行くぞ」

 カラカラ……と格子戸を開けて外に出ると、外は小雨が降っていた。まだ降り始めたばかりのようで、アスファルトの濡れた匂いがする。店の外に置きっぱなしの傘立てには傘がたったの一本。普段なら忘れ物の傘が何本かここに刺さっていたりするのに、こういうときに限ってそれがない。

「青ちゃん。傘一本しかねぇや……」
「十分です。すぐだし」
「──悪りぃな」

 巽がポンと傘を広げ、日南子の方へそれを傾けると、彼女がピョンとその下に入って微笑んだ。

「相合傘だ。ふふ…」

 隣を歩く日南子が、なぜか嬉しそうに笑っている。

「なんで、笑ってんだよ?」
「学生の頃からちょっと憧れてたんです、これ」
「──は? やったことねぇの?」
「ないですよー! 彼とかいなかったって言ったじゃないですか」
「ははっ。マジか。なんか悪りぃな……初めてがこんなオッサンで」
「ううん? 嬉しいです」

 何気ない日南子の言葉に思わず彼女を凝視するが、彼女は「え?」と不思議そうに無邪気な笑顔を返すだけ。

「──や、何でもねぇ」

 変に意識してんのは自分だけか、と巽は照れくささを誤魔化すように息を吐く。ひとまわりも年下の女の子からすれば巽などは意識する対象にもならないだろうに。

「学生の時、巽さんに会ってたらどんなだったかなー?」

 隣を歩く日南子が言った。

「……会えねぇだろ、歳離れ過ぎだし」
「だから、仮にですよ。もし同級生とかだったら──って、」
「タイプ違うから、接点なんてなかったかもな」

 巽はどちらかといえば、学生時代はやんちゃな方だった。勉強はそこそこできたほうだが、その年頃なりの悪さもしたし、決して優等生なタイプではなかった。
 その点、日南子はたぶん昔から真面目なタイプなのだろう。ヘタしたらクラス委員とかやってそうな感じの雰囲気さえ醸し出している。

「そんなことなかったかもですよ? ──ほら、本の話とかできたかもだし。好きな食べ物の話とか」
「ははっ。そこは、熱く語りそうだよな、青ちゃん」
「巽さんも昔からお料理は好きだったんでしょう? 意外と仲良くなったりして」
「さぁ。それは、どーかな」

 そんなたわいもない会話の間に風が出て来て、次第に雨脚が強くなる。雨に濡れるのを避けるため、日南子が巽に身体を寄せた。コツンと巽の肩に日南子の頭がぶつかり、彼女が照れくさそうに額に手を当てた。
 気づけば彼女のマンションの前。普段はここで別れるが今夜は雨が降っていることもあり、エントランスのほうまで送って行った。

「それじゃあな」

 そう言った別れ際、日南子がバックからハンカチを取り出した。そのハンカチを持った手をそっと巽の左肩に置く。そこで初めて自分のシャツの肩が雨に濡れていることに気づいた。

「肩、濡れちゃってますね」
「や。いいってこれくらい」
「よくないです」

 珍しく日南子が力強い口調で言った。傘の下、自分と彼女との距離が近い事から気を逸らせるように、顔を合わせることを避け日南子の細い腕を見つめる。

「少しはマシになったかな?」

 そう言ってその細い腕を引っ込めた日南子が至近距離で微笑んだ。
 まるで小さな花が咲いたような日南子の笑顔に胸がザワつく。もう二度とこういう気持ちを持たないように、と胸の奥深くに封印したはずの感情が小さな隙間から零れ出そうになる。

「ありがとうございました。おやすみなさい」
「──ああ。おやすみ。またな」

 平静を装って踵を返し、そのまま小走りに走りだした。いつのまにか出来た水溜りを踏んで、足下にビシャッと水が跳ねる。

「げ。濡れたよ……」

 小さく呟いて彼女のマンションを振り返るとエントランスの下にはまだ彼女がいて、巽が振り返った事に気づくと小さく手を振った。エントランスの明りで逆光になっていて表情こそわからないが、なんとなく彼女の笑顔の想像がつく。

「……勘弁しろって」

 まるで恋人を見送るみたいな──。

 勘違いするな。巽は自分に言い聞かせた。彼女の言葉や態度にたいした意味などない。なのに、彼女の笑顔を思い出すだけで、忘れようとしてた感情が、チリチリと刺激される。

 意識してはいけない。惹かれてもいけない。
 もし誰かを好きになれたとして、結局俺は誰かを失う恐怖に怖気づいてしまうかもしれないのだから。

   *

 慌ただしい八月が過ぎ去り、いつの間にか九月。まだまだ残暑は厳しく、日中の気温は先月までとさほど変わらない。
 ただ湿気を多く含み肌に纏わり付くようだった風が、サラリと肌を撫でるように変化した。何気ない日常の中で季節だけがゆっくりと移り変わっていく。

「ありがと、巽。助かったわー」
「いーけどな。荷物、ここ置いていいのか?」
「あー、そのへん置いといて」

 巽は両手に提げた荷物を小さなアパートの玄関先に置いた。
 休日はよく両親の所用に付き合わされる。去年、父親が小さな接触事故を起こしたのをきっかけに免許の返還をした為だ。
 夫婦二人で生活するには不便はないようだったが、大きな荷物になるような買い物をするときには巽が車を出している。
 今日は母親のふく子の買い物。父親の繁は近所の友達と出かけているらしい。

「お茶くらい飲んでくでしょー?」
「ああ」

 巽が“くろかわ”を継ぎ、実家に棲むようになってから、両親は隣町の安アパートに引っ越した。店の二階に親子三人で住めないわけではないが、老後を夫婦二人で気ままに過ごしたいという両親の意向を酌んだ形にはなっているが、それが両親の気遣いだというのはこの歳になれば分かる。
 同じ家にいれば、巽のやることに口を出してしまうかもしれないと懸念しての事だろう。

「ここ。二人で狭くねぇの?」

 キッチンに立ち麦茶を入れているふく子に訊ねた。

「狭くないわよぉ、むしろ快適。お父さんと二人だもの、これくらいで十分。あんたがもし結婚でもして、孫でも連れて来るようになればもう少し広いところへ引っ越すわよ」
「……」

 柔らかな言葉ではあるが、チクリと巽を一刺しするのも決して忘れない。両親の気持ちも分かるが、巽はそれをいつものように苦笑いで聞き流す。

「はい、どぉぞ」
「ああ。サンキュ」

 テーブルに出された麦茶を一気に飲み干した。

「青ちゃん、元気?」
「ああ。仕事忙しいみてぇだけどな。相変わらずよく顔出してくれてる」
「なんか、不思議な子よねぇ。普通の子なのに、顔見るだけで癒されるっていうか」
「まー、確かに癒し系ではあるな」
「あの子が自分の料理食べてるの見ると、なぜかこっちが幸せな気持ちになるのよねぇ」

 確かにそれはある。あの幸せそうな笑顔が俺たちをそうさせているのだろうか。

「帰りに野菜持ってきなさい。ピーマンたくさん採れたのよ! 青ちゃんにもちゃんとお裾分けしてあげてね」
「ああ。すっげー喜ぶと思うわ」

 それを手渡したときの彼女の嬉しそうな顔が目に浮かぶ。



  

   
< 26 / 59 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop