love*colors
「最近、あんた少しイイ顔するようになったわね」
ふく子が麦茶を飲みながら小さな煎餅の袋を開けて巽に差し出した。巽は訝しげな表情を浮かべたまま、それを受け取る。
「イイ顔で笑えるようになった」
「何だそれ」
「あんた、あの店好き?」
「──は、何だよ今更」
「あんたに店譲ったのは、あの時、打ち込めるものが必要だって思ったからよ。亜紀ちゃん亡くなってからあんた何かに取り付かれたみたいに仕事してた。まるでそうしていないと不安で仕方ないみたいに」
「……」
確かにそうだった。亜紀を失って──、それが丁度巽が店を譲り受ける時期と重なって。とにかく必死だった。純粋に仕事に打ち込むというより、悲しみややるせなさといったエネルギーをすべて無理矢理仕事エネルギーに変換していた。
事実、何かをしていないと不安だった。忙しくすることで湧きあがって来る悲しみを麻痺させているようなところがあった。
「今は、どう? 少しはラクになったんじゃない?」
ふく子がグラスに麦茶を注ぎ足しながら訊ねた。
「亜紀ちゃんのこと、無理に忘れることはないと思うのよ。失ってしまったけれど、愛した人がいたってことは、あなたの人生の宝物だもの。あんたまだ若いんだし」
「……べつに、若かねぇよ」
「そういう意味じゃなくて。分かるでしょう?」
「……」
「お店大事にしてくれるのはありがたいし、嬉しいけど。自分の幸せのことも考えなさいってこと。──幸せにしたい、守りたいって人ができたら、今度こそ幸せにしてあげなさい。怖がっちゃダメ、あんな不運な事二度と起こるもんですか!」
そう言ってふく子が、パリと煎餅を口に放り込んだ。それをボリボリと噛み砕きながらこちらを見る。真面目な話の途中で、口をモゴモゴさせている母親の姿に小さな笑いが漏れる。
「おい。煎餅食いながらする話しかよ、これ」
「……食べながらでもないと、言えない事もあんのよ」
「なんか、締まらねぇな」
幸せを諦めるな──とか、最近、似たようなことを赤松にも言われたような。
自分の親といい、友人といい、どうにも周りにおせっかいな人間が多過ぎる気がするが、心配されるのも案外悪いものではないと思えるようになったのも、以前に比べれば軟化しつつある心境の変化というものなのだろうか。
*
吹く風がすっかり秋めいてきた九月半ば過ぎ。
店の営業を終えて近所のコンビニに煙草を買いに立ち寄った帰り、どこからともなく祭囃子の笛の音が聞こえてきた。
「そういや、そろそろ秋祭りだな……」
祭典時には店の前の大通りや近所の神社に出店の屋台が出たり、そこそこの賑わいをみせる。
コンビニから細い中道を通ると店までの近道になる。その細道の途中には見慣れた煉瓦色の建物。これが日南子のマンションだ。何度も彼女を送って来たことがあるが、巽が知っているのはその外観のみ。
ここ一週間ほど、日南子は店に顔を出していない。母親から貰った野菜を口実に、連絡をとってみようかとも思ったが、たいした用があるわけでも特別親しい間柄というわけでもないのに、こちらから連絡をするのも気が引けて、結局それをしそびれている。
友達でもなければ、恋人でもない。
店が唯一の接点であり、あの店がなくなれば、彼女との縁などないに等しい。
事実、そんな薄っぺらな間柄なのだ。
さっき買ったばかりの煙草を袋から取り出し、その中の一本を咥え火をつける。
「んんっ、」
少し喉が痛むのは、朝晩の気温差から来る体調不良か。
「……いや、違うな」
昨夜遅くになって来た赤松が、風邪気味だと言っていた。もしかしたら風邪をうつされたかもしれない。
* * *
それから数日。日に日に喉の痛みが悪化し、今朝の時点ですでに微熱があった。
昼営業を終えたところで、三十七度八分。そこまで高熱と言うわけではないが、悪寒も酷いことからこれからさらに熱が上がることを予想して、早々に夜の営業を休業することにした。
幸いどうしても店を開けなければならない予約などは入ってなかったし、一日くらい店を休んだところでさほど迷惑をかけることもないだろう。こういう時、自営業というのはその辺の融通が利いて非常にありがたい。
店の玄関口に【本日、休業】の貼り紙をして店を閉めると、巽はすぐさま自室のベッドにもぐりこんだ。
どれくらい眠っただろう。気付けば辺りは真っ暗。開け放ったままのカーテンから外の街灯が灯っているのが見え、日が落ちて随分経つのだろうということが分かる。
手探りでベッドサイドのスマホに手を伸ばし、時刻を確認。すでに午後八時近くだった。気だるい身体をゆっくりと起こしてみるも、どうにも頭が重くてフラフラとする。
その時、ピリリ、ピリリ……とスマホが鳴った。
着信画面に表示された名前に一瞬出るのを躊躇ったが、大方休業日でもないのに店の明りが消えていることを不審に思い、気にして電話を掛けて来たのだろうと想像がつくあたりなんだか申し訳ない気持ちになってその電話に出た。
「……もしもし、」
努めて元気そうな声を出そうとしたのだが、寝起きということもあり全く予想もしなかった掠れた声が出た。
『──巽さん? ……あの、青野、ですけど。……お店お休み、って』
「……ああ、うん」
名乗らずとも、声だけで分かる。訊き慣れた柔らかな声。
『──声、もしかして体調悪いとかですか?』
「あー、たいしたこたぁないんだけど。ちょい風邪ひいたっぽくてな……。悪かったな。もしかして店寄ってくれる気だった?」
仕事が忙しいらしいのは聞いてはいたが、そろそろ彼女が店に顔を出す頃かと思ってはいたのだ。
『あ、うん。……そうだったんですけど、体調悪かったんですね。もしかして、熱とかあります? 食事は? 薬とか……』
日南子が続けさまに訊ねるのに、思わずクスと笑いが漏れる。ただの行きつけの定食屋のオヤジにこうして心配して電話をくれるだけありがたい。
「や。大丈夫。寝てりゃなんとかなるし──、」
また、声が掠れた。電話の向こうで表の車が走り去っていく音が聞こえる。店の前から電話を掛けてきているのだろう。あんな暗がりで電話など、また何かあるかと思うと気掛かりで仕方ない。
「青ちゃん……平気だから、早く帰んな」
『……』
「まだ店の前にいんだろ? ほら、夜は危ねーから、マジ」
少し強い口調で言うと、少しの沈黙の後『はい』と小さな返事が聞こえた。
『ゆっくり寝て身体休めてください。お大事に』
「ああ。サンキューな」
そう言って電話を切ると小さく息を吐いた。
ゆらりと立ち上がり、部屋の入り口付近に無造作に積み上げられた洗濯物の中からティーシャツを掴んでゆっくりと階段を降りた。
汗でびしょ濡れになったシャツを脱いで、裏口の洗濯カゴの中へそれを放り投げた。とりあえず喉が渇いていたので、上半身裸のまま冷蔵庫を開ける。扉の内側にあったペットボトルのお茶を取り出して、一気に半分ほど喉の流し込んで口元を拭った。
腹も減ったし、薬も飲みたい。何か口に入れておきたいところだが、熱が高いのか食欲が湧かない。口当たりのいいものを、と冷蔵庫を探すも、身体がふらついて結局その場にしゃがみこんだ。
「……これ、熱相当あんな」
滅多に風邪などひかない体質《たち》だが、ここまで身体が重くふらつくのは、相当熱が高いことを示していることくらいは分かる。かと言って正確な体温を知るのは少し勇気がいる。数字としてはっきりとした体温を知ってしまうと、身体がそれを自覚し途端に動けなくなってしまうのはよくあることだ。
その時、コンコンと裏口の扉がノックされる音がした。気のせいか、とも思ったがもう一度コンコン。冷蔵庫を支えにゆっくりと立ち上がると、
「……巽さん、起きてますか?」
少し遠慮がちではあるが、はっきりとした声が聞こえた。その声に弾かれるようにゆらりと歩き出し、裏口の扉を開ける。キィイ……と軋んだ音を立てた扉の隙間から青野日南子が顔を覗かせた。
「青ちゃん……」
言った瞬間、日南子が「きゃあ!」と両手で顔を隠した。彼女が手に持っていたビニール袋がガサガサっと音を立て地面に落ちる。
「──あ! 悪りぃ……」
そうだった。さっきティーシャツを脱いだままの上半身裸だったことに気づいて、上に何か着ようと向きを変えたとき、軽い眩暈を起こしてその場にへたり込んだ。
「ちょ、っ、……え? 巽さん?!」
日南子が慌てて地面に落ちた袋を拾い上げ、扉を開けて店に入る。それから巽のすぐ傍にしゃがみ込んで、そっと背中に手を添えた。
「大丈夫ですかっ?」
「……ちょい、眩暈」
そう言って息を吐くと、日南子がそっと巽の腕を掴み、脇に入った。
「寄りかかって」
「や。無理だろ。つーか、そんなんさせらんねー」
「何言ってんですか、こんな時に! いいから掴まってください!」
「……」
初めて聞く日南子の強い口調に、半ば呆気にとられながらも巽は渋々それに従った。
身長一五〇センチ半ばくらいであろう日南子が、それより二十センチ以上は由に越える巽の身体を支えるのにはさすがに無理がある。そうでなくとも彼女は華奢なほうだし、巽はそこそこ筋肉質だ。
しかも、こんな若い子に四十間近のオッサンの直肌《じかはだ》を支えてもらうなど申し訳なさすぎる。せめて上に何か着てりゃよかったと後悔してもすでに遅い。
「あ、そこでいい……」
裏口からすぐの厨房に置きっぱなしの丸椅子を指さすも、日南子はそれをを無視するように巽を店の方へと引っ張った。よろよろと歩きながらどうにか店のテーブル席に辿り着くと、日南子は巽をそこへ座らせようと椅子を引く。ドサッと椅子に腰を下ろした反動で、日南子の身体が巽の上にのしかかるようになり、故意ではないがふいに掠めた唇と唇にお互いがハッとして飛び退いた。
「……っ、ごめんなさ……」
「いや。こっちこそ……」
顔を真っ赤にして申し訳なさそうな顔をする日南子に、こっちがいたたまれない気持ちになる。
「……あの巽さん、何か着て……」
尚も顔を真っ赤にしている日南子に、なんとも言えない気持ちが湧きあがる。男の身体見たくらいでこんなにも真っ赤になるなど、図らずも彼女の男に対する免疫のなさが伺える。
「悪りぃ、青ちゃん。裏口の洗濯機のあたりにシャツ置きっぱになってると思うんだわ。それ取ってくんね?」
「あ、はい!」
日南子がそう返事をして、裏口からティーシャツを持ってきて巽に手渡した。巽はそれを受け取り、素早く袖を通してほっと息を吐く。
「つか。何しに来てんの。早いトコ帰れっつったろ?」
「……でも、声がなんだか辛そうだったし。困ってるんじゃないかって」
彼女はもともと気遣い屋ではあるが、気が回り過ぎるのも考えものだ。
「平気だっつったろ?」
「平気じゃないですよ。こんな熱でフラフラなのに……巽さん、凄く熱いですよ?」
日南子が心配そうな顔で、巽の額に手を伸ばした。こちらの熱が高いのか、それとも彼女の手が冷たいのか。触れた日南子の手がひんやりとして心地いい。
彼女が、ハッと何かを思い出したように巽から離れ、裏口に入ってすぐのところに放置されたままのビニール袋を提げて戻ってきた。
「スポーツ飲料と、風邪薬と、ひえピタ……、ゼリー飲料に……」
日南子が袋の中からそれらを取り出す姿がまるでポケットから次々と不思議など道具を取り出すネコ型ロボットのようでカワイイなと、つい口の端から笑いが漏れた。
ふく子が麦茶を飲みながら小さな煎餅の袋を開けて巽に差し出した。巽は訝しげな表情を浮かべたまま、それを受け取る。
「イイ顔で笑えるようになった」
「何だそれ」
「あんた、あの店好き?」
「──は、何だよ今更」
「あんたに店譲ったのは、あの時、打ち込めるものが必要だって思ったからよ。亜紀ちゃん亡くなってからあんた何かに取り付かれたみたいに仕事してた。まるでそうしていないと不安で仕方ないみたいに」
「……」
確かにそうだった。亜紀を失って──、それが丁度巽が店を譲り受ける時期と重なって。とにかく必死だった。純粋に仕事に打ち込むというより、悲しみややるせなさといったエネルギーをすべて無理矢理仕事エネルギーに変換していた。
事実、何かをしていないと不安だった。忙しくすることで湧きあがって来る悲しみを麻痺させているようなところがあった。
「今は、どう? 少しはラクになったんじゃない?」
ふく子がグラスに麦茶を注ぎ足しながら訊ねた。
「亜紀ちゃんのこと、無理に忘れることはないと思うのよ。失ってしまったけれど、愛した人がいたってことは、あなたの人生の宝物だもの。あんたまだ若いんだし」
「……べつに、若かねぇよ」
「そういう意味じゃなくて。分かるでしょう?」
「……」
「お店大事にしてくれるのはありがたいし、嬉しいけど。自分の幸せのことも考えなさいってこと。──幸せにしたい、守りたいって人ができたら、今度こそ幸せにしてあげなさい。怖がっちゃダメ、あんな不運な事二度と起こるもんですか!」
そう言ってふく子が、パリと煎餅を口に放り込んだ。それをボリボリと噛み砕きながらこちらを見る。真面目な話の途中で、口をモゴモゴさせている母親の姿に小さな笑いが漏れる。
「おい。煎餅食いながらする話しかよ、これ」
「……食べながらでもないと、言えない事もあんのよ」
「なんか、締まらねぇな」
幸せを諦めるな──とか、最近、似たようなことを赤松にも言われたような。
自分の親といい、友人といい、どうにも周りにおせっかいな人間が多過ぎる気がするが、心配されるのも案外悪いものではないと思えるようになったのも、以前に比べれば軟化しつつある心境の変化というものなのだろうか。
*
吹く風がすっかり秋めいてきた九月半ば過ぎ。
店の営業を終えて近所のコンビニに煙草を買いに立ち寄った帰り、どこからともなく祭囃子の笛の音が聞こえてきた。
「そういや、そろそろ秋祭りだな……」
祭典時には店の前の大通りや近所の神社に出店の屋台が出たり、そこそこの賑わいをみせる。
コンビニから細い中道を通ると店までの近道になる。その細道の途中には見慣れた煉瓦色の建物。これが日南子のマンションだ。何度も彼女を送って来たことがあるが、巽が知っているのはその外観のみ。
ここ一週間ほど、日南子は店に顔を出していない。母親から貰った野菜を口実に、連絡をとってみようかとも思ったが、たいした用があるわけでも特別親しい間柄というわけでもないのに、こちらから連絡をするのも気が引けて、結局それをしそびれている。
友達でもなければ、恋人でもない。
店が唯一の接点であり、あの店がなくなれば、彼女との縁などないに等しい。
事実、そんな薄っぺらな間柄なのだ。
さっき買ったばかりの煙草を袋から取り出し、その中の一本を咥え火をつける。
「んんっ、」
少し喉が痛むのは、朝晩の気温差から来る体調不良か。
「……いや、違うな」
昨夜遅くになって来た赤松が、風邪気味だと言っていた。もしかしたら風邪をうつされたかもしれない。
* * *
それから数日。日に日に喉の痛みが悪化し、今朝の時点ですでに微熱があった。
昼営業を終えたところで、三十七度八分。そこまで高熱と言うわけではないが、悪寒も酷いことからこれからさらに熱が上がることを予想して、早々に夜の営業を休業することにした。
幸いどうしても店を開けなければならない予約などは入ってなかったし、一日くらい店を休んだところでさほど迷惑をかけることもないだろう。こういう時、自営業というのはその辺の融通が利いて非常にありがたい。
店の玄関口に【本日、休業】の貼り紙をして店を閉めると、巽はすぐさま自室のベッドにもぐりこんだ。
どれくらい眠っただろう。気付けば辺りは真っ暗。開け放ったままのカーテンから外の街灯が灯っているのが見え、日が落ちて随分経つのだろうということが分かる。
手探りでベッドサイドのスマホに手を伸ばし、時刻を確認。すでに午後八時近くだった。気だるい身体をゆっくりと起こしてみるも、どうにも頭が重くてフラフラとする。
その時、ピリリ、ピリリ……とスマホが鳴った。
着信画面に表示された名前に一瞬出るのを躊躇ったが、大方休業日でもないのに店の明りが消えていることを不審に思い、気にして電話を掛けて来たのだろうと想像がつくあたりなんだか申し訳ない気持ちになってその電話に出た。
「……もしもし、」
努めて元気そうな声を出そうとしたのだが、寝起きということもあり全く予想もしなかった掠れた声が出た。
『──巽さん? ……あの、青野、ですけど。……お店お休み、って』
「……ああ、うん」
名乗らずとも、声だけで分かる。訊き慣れた柔らかな声。
『──声、もしかして体調悪いとかですか?』
「あー、たいしたこたぁないんだけど。ちょい風邪ひいたっぽくてな……。悪かったな。もしかして店寄ってくれる気だった?」
仕事が忙しいらしいのは聞いてはいたが、そろそろ彼女が店に顔を出す頃かと思ってはいたのだ。
『あ、うん。……そうだったんですけど、体調悪かったんですね。もしかして、熱とかあります? 食事は? 薬とか……』
日南子が続けさまに訊ねるのに、思わずクスと笑いが漏れる。ただの行きつけの定食屋のオヤジにこうして心配して電話をくれるだけありがたい。
「や。大丈夫。寝てりゃなんとかなるし──、」
また、声が掠れた。電話の向こうで表の車が走り去っていく音が聞こえる。店の前から電話を掛けてきているのだろう。あんな暗がりで電話など、また何かあるかと思うと気掛かりで仕方ない。
「青ちゃん……平気だから、早く帰んな」
『……』
「まだ店の前にいんだろ? ほら、夜は危ねーから、マジ」
少し強い口調で言うと、少しの沈黙の後『はい』と小さな返事が聞こえた。
『ゆっくり寝て身体休めてください。お大事に』
「ああ。サンキューな」
そう言って電話を切ると小さく息を吐いた。
ゆらりと立ち上がり、部屋の入り口付近に無造作に積み上げられた洗濯物の中からティーシャツを掴んでゆっくりと階段を降りた。
汗でびしょ濡れになったシャツを脱いで、裏口の洗濯カゴの中へそれを放り投げた。とりあえず喉が渇いていたので、上半身裸のまま冷蔵庫を開ける。扉の内側にあったペットボトルのお茶を取り出して、一気に半分ほど喉の流し込んで口元を拭った。
腹も減ったし、薬も飲みたい。何か口に入れておきたいところだが、熱が高いのか食欲が湧かない。口当たりのいいものを、と冷蔵庫を探すも、身体がふらついて結局その場にしゃがみこんだ。
「……これ、熱相当あんな」
滅多に風邪などひかない体質《たち》だが、ここまで身体が重くふらつくのは、相当熱が高いことを示していることくらいは分かる。かと言って正確な体温を知るのは少し勇気がいる。数字としてはっきりとした体温を知ってしまうと、身体がそれを自覚し途端に動けなくなってしまうのはよくあることだ。
その時、コンコンと裏口の扉がノックされる音がした。気のせいか、とも思ったがもう一度コンコン。冷蔵庫を支えにゆっくりと立ち上がると、
「……巽さん、起きてますか?」
少し遠慮がちではあるが、はっきりとした声が聞こえた。その声に弾かれるようにゆらりと歩き出し、裏口の扉を開ける。キィイ……と軋んだ音を立てた扉の隙間から青野日南子が顔を覗かせた。
「青ちゃん……」
言った瞬間、日南子が「きゃあ!」と両手で顔を隠した。彼女が手に持っていたビニール袋がガサガサっと音を立て地面に落ちる。
「──あ! 悪りぃ……」
そうだった。さっきティーシャツを脱いだままの上半身裸だったことに気づいて、上に何か着ようと向きを変えたとき、軽い眩暈を起こしてその場にへたり込んだ。
「ちょ、っ、……え? 巽さん?!」
日南子が慌てて地面に落ちた袋を拾い上げ、扉を開けて店に入る。それから巽のすぐ傍にしゃがみ込んで、そっと背中に手を添えた。
「大丈夫ですかっ?」
「……ちょい、眩暈」
そう言って息を吐くと、日南子がそっと巽の腕を掴み、脇に入った。
「寄りかかって」
「や。無理だろ。つーか、そんなんさせらんねー」
「何言ってんですか、こんな時に! いいから掴まってください!」
「……」
初めて聞く日南子の強い口調に、半ば呆気にとられながらも巽は渋々それに従った。
身長一五〇センチ半ばくらいであろう日南子が、それより二十センチ以上は由に越える巽の身体を支えるのにはさすがに無理がある。そうでなくとも彼女は華奢なほうだし、巽はそこそこ筋肉質だ。
しかも、こんな若い子に四十間近のオッサンの直肌《じかはだ》を支えてもらうなど申し訳なさすぎる。せめて上に何か着てりゃよかったと後悔してもすでに遅い。
「あ、そこでいい……」
裏口からすぐの厨房に置きっぱなしの丸椅子を指さすも、日南子はそれをを無視するように巽を店の方へと引っ張った。よろよろと歩きながらどうにか店のテーブル席に辿り着くと、日南子は巽をそこへ座らせようと椅子を引く。ドサッと椅子に腰を下ろした反動で、日南子の身体が巽の上にのしかかるようになり、故意ではないがふいに掠めた唇と唇にお互いがハッとして飛び退いた。
「……っ、ごめんなさ……」
「いや。こっちこそ……」
顔を真っ赤にして申し訳なさそうな顔をする日南子に、こっちがいたたまれない気持ちになる。
「……あの巽さん、何か着て……」
尚も顔を真っ赤にしている日南子に、なんとも言えない気持ちが湧きあがる。男の身体見たくらいでこんなにも真っ赤になるなど、図らずも彼女の男に対する免疫のなさが伺える。
「悪りぃ、青ちゃん。裏口の洗濯機のあたりにシャツ置きっぱになってると思うんだわ。それ取ってくんね?」
「あ、はい!」
日南子がそう返事をして、裏口からティーシャツを持ってきて巽に手渡した。巽はそれを受け取り、素早く袖を通してほっと息を吐く。
「つか。何しに来てんの。早いトコ帰れっつったろ?」
「……でも、声がなんだか辛そうだったし。困ってるんじゃないかって」
彼女はもともと気遣い屋ではあるが、気が回り過ぎるのも考えものだ。
「平気だっつったろ?」
「平気じゃないですよ。こんな熱でフラフラなのに……巽さん、凄く熱いですよ?」
日南子が心配そうな顔で、巽の額に手を伸ばした。こちらの熱が高いのか、それとも彼女の手が冷たいのか。触れた日南子の手がひんやりとして心地いい。
彼女が、ハッと何かを思い出したように巽から離れ、裏口に入ってすぐのところに放置されたままのビニール袋を提げて戻ってきた。
「スポーツ飲料と、風邪薬と、ひえピタ……、ゼリー飲料に……」
日南子が袋の中からそれらを取り出す姿がまるでポケットから次々と不思議など道具を取り出すネコ型ロボットのようでカワイイなと、つい口の端から笑いが漏れた。