love*colors
「……ん、っ、」
日南子がうっすらと目を開けた。その焦点は定まらず、数秒間ふわふわと辺りを彷徨ったあと、ハッと目を見開いた。
「おはよう」
とりあえずそう声を掛けると、日南子が驚いた顔をして今まで握ったままだった巽の手を慌てて離した。
「……あ、のっ。これはっ……!」
その声の加減と表情から日南子がテンパっているのが見て取れる。正直こちらも同じくらいのテンパり具合ではあったが、二人してアワアワしては収拾がつかないと思い、出来る限り平静を装った。
「何でいんの? ──あ、いや。責めてるわけじゃなくてな……」
日南子がここを出て行くところまで見送らなかった自分が一番悪いのだが、どうしてこうなったのかやはり気になる。
「……ごめんなさい」
「だから。責めてるんじゃないって言ったろ?」
小さくなった日南子にできるだけ優しい声を掛けた。日南子がベッドの脇に座ったまま巽を見上げる。まるで飼い主に叱られた犬のようになっている彼女にそっと手を伸ばし、乱れた髪をそっと掬った。
「……あのあと、片付けして帰ろうと思って。教えてもらった裏口の鍵が見当たらなくて、巽さんに聞きに戻ったんです。そしたら巽さん、眠ってて──、少し様子見てから起こそうって思ったんですけど、いつの間にか眠っちゃったみたいで」
結局、俺か。巽は小さく息を吐いた。彼女は俺に気を使って帰るに帰れない状況になってしまったのだ。
「──ごめん」
「ち、違うんです!! ……私が勝手にしたことで。気づいたら夜中で、巽さん酷くうなされてて──」
うなされていた原因は巽にも心当たりがある。うっすら覚えている。あの夢をみていたのだ。
「巽さん、苦しそうに手を伸ばして──、私どうしていいか分からずに、その手を……」
手──、そうだ。あの夢にはいつも見ない続きがあった。普段大水に飲み込まれる息苦しさに目を覚ますのに、誰かが手を差し伸べてくれた。
細くて頼りない手ではあったが、その手を掴むと、とても強い力で握り返してくれた。その手の温かさに助けられた。あれは彼女の手だったのか。
「……巽さん?」
日南子が心配そうに顔を覗き込む。立て膝のままゆっくりこちらに近づいて来た彼女が遠慮がちに巽の額に触れる。
「具合、どうですか? 昨夜より熱は下がっているみたいですけど」
額が少しつっぱるのは、冷却シートが張られているから。たぶん日南子が何度か夜中に張り替えてくれたのだろう。
独特の気だるさと重みが残っているが、痛みというほどのものはないし、随分すっきりした気がする。
「……悪かったな。いろいろ迷惑かけたみたいで」
巽が頭を下げると、日南子がふるふると首を振った。その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「良かったです。……ホント言うと怖かったんです。巽さんうなされてるとき」
「え?」
「何だかすごく辛そうで、このまま消えちゃうんじゃないかって……」
寝ている時の自分がどんなふうなのかは分からないが、その様子が彼女に相当な心配をかけたのだろうということは想像できた。
「──怖がらせてごめんな? あることがきっかけで、たまに酷い夢見るんだ。蒸し暑い夏とか……こんなふうに身体が弱ってるときは特に」
正直に話していた。もちろんだいぶ曖昧な表現ではあるが、迷惑を掛けた手前、なんとなくの事情を話しておくべきだと思った。
「……それは、ずっと巽さんを苦しめるんですか?」
「や。ずっとか……は、分からないな。いつか見なくなる日がくるのかもしれねぇし。──けど、忘れてもいけないんだと思うんだ。まぁ、その辺ちょい複雑で……」
言葉を濁したのを悟った日南子はそれ以上、何も訊かなかった。彼女もまた、踏み越えてはならないラインというものに敏感な人種だ。
「巽さん」
「ん?」
「……もう一回、手……いいですか?」
日南子が遠慮がちに訊ねた。その意味を測りかねるも、訳もわからないまま彼女の前に手を差し出す。
「これが、どうかした?」
その質問に答えることなく、日南子が巽の手を両手でキュッと包み込んだ。ピク、と動く指。日南子はそれでも巽の手を離そうとはしない。
「……青ちゃん?」
「良かった……」
そう言ってさらにギュッ、と巽の手を握りしめる日南子の姿に、なぜか胸が締め付けられる。
「──なぁ。これ、俺的にどう対応すりゃいいのか分かんねぇ」
そう思わず言ったのは、どうしようもない照れくささから。そこそこの経験を積んで大概の事には動じなくなっているオヤジとはいえ、若い女の子にこんな事をされたらさすがに平常心ではいられない。
「……えっ、あ、ごめ……なさ、」
日南子がハッと手を離す。途端に顔をカァと赤らめる姿は、まさに天然。さっきまでこっちが照れてどうしようもないくらい大胆に人の手を握りしめていたというのに。
「青ちゃん。……そう言えば今日仕事は?」
「あ。今日はお休みで」
「ああ、なんだ……そうか」
そうあっさりと答えるところは妙に冷静なあたり、いまいち彼女が掴み切れない。
「巽さん、お腹すきません?」
「ああ。せっかくだし、飯食ってくか? 何か作るわ」
そう言って立ち上がろうとしたところを、彼女に手で制された。
「まだ無理しちゃダメです! 私、作ります。また厨房お借りしていいですか?」
「や。ありがたいけどもー、そこまでして貰うのも……」
「私、いつも送って貰ったりで巽さんにお世話になってるし……」
「や。あれくらい大したことじゃねぇしな……」
「じゃあ。今度、改めてお礼に何か頼んでもいいですか? それなら今言うこと聞いて貰えます?」
これまたいつになく強引な物言いだが、巽に無理をさせない為の彼女の気遣いなのだと思い頷いた。
「……いいけど、常識の範囲で頼むな」
まぁ、日南子に限ってないだろうが。ン十万もするブランド品とか強請られた日には、“お父さん”通り越して「援交」などと悪友に揶揄されそうだ。
「分かってますよー」
「俺も階下行っていい? 熱はだいぶ下がったし、飯くらいちゃんと座って食いてぇ」
「……ふふ。それは許してあげます」
そういって笑った楽しげな日南子の表情に、性懲りもなく心の奥がムズムズする。
「……」
「先、下りてますね」
ああ。これはちょっとヤバいやつかもしれない──。
年甲斐もなく、危うくときめきかけそうになる。勝手に火照る顔を腕で隠すようにしながら、彼女の後を追って部屋を出た。
忘れかけていた──切り捨てようとしていた感情を揺り動かすのは、どうしていつも彼女の笑顔なのだろう。
階下に降りて洗面所で顔を洗い、店のカウンター席に座りながら日南子の姿を見守る。
調理器具の場所があやふやな為、途中動きが止まったりもするが、基本的に料理慣れしているのは、その手際から十分に伺える。
昨夜作ってくれた雑炊も、工夫されていて予想以上に旨かった。
普段、カウンターの外側に座って厨房を眺めることがないからか、ここからの眺めがやけに新鮮に映る。
日南子がこのカウンター席を気に入っているのもなんとなくその気持ちが分かる気がした。ここにいれば、店の中の全てが見渡せる。お客の入りから、厨房の様子まで。ヘタすれば、どのタイミングで料理がでるのかというような細かな事まで。
「巽さん、できました。こっちに運んでいいですか?」
日南子がそう言ってテーブル席のほうへ出来上がったばかりの朝食を並べた。冷蔵庫の中の食材を上手い事使い、よく見ればけっこう豪華な朝食がテーブルに並べられている。
「いつもこんな朝飯食ってんのか?」
「まさか。巽さんにも食べてもらうんで、だいぶ盛りました」
いつだったか、こんな会話をしたことがある。そうだ、随分前に酔いつぶれた彼女をここに泊めてやった時だ。
「お口に合うかわかりませんが!」
日南子が両方の手のひらを上に向けて、どうぞと巽を席に促した。巽は促されるまま席に着く。
「すげぇ、旨そう」
「……だといいな」
ふふ、と笑った日南子が席に着いたタイミングで手を合わせると、彼女も同じように手を合わせ、二人揃って「いただきます」と言って箸を持った。
普段から日南子は食事の際の所作がきれいだ。きちんとした親にそういう教育を受けて来ているのだろう。美味しそうに料理を口に運ぶ姿はもちろんのこと、その所作ひとつにもつい目が行く。
「ん。……旨い」
シンプルな出汁巻き卵を口に入れながら呟くと、日南子がほっとしたような顔をした。
「や。普通に旨いからな? 変に緊張すんなって」
「緊張しますよー。ハードル高いんですからね? お料理作るお仕事の人に自分の手料理振る舞うのは」
「ははっ。気にし過ぎだろ」
誰かと穏やかな朝を迎えるのはどれくらいぶりだろう。
こういう何気ない時間に幸せを感じるようになったのは、歳を重ねたせいだろうか。
“──自分の幸せも考えなさい”
母親に言われた言葉を思い出した。目の前の日南子が黙々と出された食事を口に運ぶ巽を見て、嬉しそうに顔をほころばせる。
「うん。マジ、旨い」
「……よかった!」
欲が出る。彼女といると。
どういう形であれ、この笑顔を見守れる距離で過ごしたいなどという欲が。
手が届かなくてもいい。自分のものでなくてもいい。ただ、こうしてその笑った顔をみられるだけで──。
日南子がうっすらと目を開けた。その焦点は定まらず、数秒間ふわふわと辺りを彷徨ったあと、ハッと目を見開いた。
「おはよう」
とりあえずそう声を掛けると、日南子が驚いた顔をして今まで握ったままだった巽の手を慌てて離した。
「……あ、のっ。これはっ……!」
その声の加減と表情から日南子がテンパっているのが見て取れる。正直こちらも同じくらいのテンパり具合ではあったが、二人してアワアワしては収拾がつかないと思い、出来る限り平静を装った。
「何でいんの? ──あ、いや。責めてるわけじゃなくてな……」
日南子がここを出て行くところまで見送らなかった自分が一番悪いのだが、どうしてこうなったのかやはり気になる。
「……ごめんなさい」
「だから。責めてるんじゃないって言ったろ?」
小さくなった日南子にできるだけ優しい声を掛けた。日南子がベッドの脇に座ったまま巽を見上げる。まるで飼い主に叱られた犬のようになっている彼女にそっと手を伸ばし、乱れた髪をそっと掬った。
「……あのあと、片付けして帰ろうと思って。教えてもらった裏口の鍵が見当たらなくて、巽さんに聞きに戻ったんです。そしたら巽さん、眠ってて──、少し様子見てから起こそうって思ったんですけど、いつの間にか眠っちゃったみたいで」
結局、俺か。巽は小さく息を吐いた。彼女は俺に気を使って帰るに帰れない状況になってしまったのだ。
「──ごめん」
「ち、違うんです!! ……私が勝手にしたことで。気づいたら夜中で、巽さん酷くうなされてて──」
うなされていた原因は巽にも心当たりがある。うっすら覚えている。あの夢をみていたのだ。
「巽さん、苦しそうに手を伸ばして──、私どうしていいか分からずに、その手を……」
手──、そうだ。あの夢にはいつも見ない続きがあった。普段大水に飲み込まれる息苦しさに目を覚ますのに、誰かが手を差し伸べてくれた。
細くて頼りない手ではあったが、その手を掴むと、とても強い力で握り返してくれた。その手の温かさに助けられた。あれは彼女の手だったのか。
「……巽さん?」
日南子が心配そうに顔を覗き込む。立て膝のままゆっくりこちらに近づいて来た彼女が遠慮がちに巽の額に触れる。
「具合、どうですか? 昨夜より熱は下がっているみたいですけど」
額が少しつっぱるのは、冷却シートが張られているから。たぶん日南子が何度か夜中に張り替えてくれたのだろう。
独特の気だるさと重みが残っているが、痛みというほどのものはないし、随分すっきりした気がする。
「……悪かったな。いろいろ迷惑かけたみたいで」
巽が頭を下げると、日南子がふるふると首を振った。その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「良かったです。……ホント言うと怖かったんです。巽さんうなされてるとき」
「え?」
「何だかすごく辛そうで、このまま消えちゃうんじゃないかって……」
寝ている時の自分がどんなふうなのかは分からないが、その様子が彼女に相当な心配をかけたのだろうということは想像できた。
「──怖がらせてごめんな? あることがきっかけで、たまに酷い夢見るんだ。蒸し暑い夏とか……こんなふうに身体が弱ってるときは特に」
正直に話していた。もちろんだいぶ曖昧な表現ではあるが、迷惑を掛けた手前、なんとなくの事情を話しておくべきだと思った。
「……それは、ずっと巽さんを苦しめるんですか?」
「や。ずっとか……は、分からないな。いつか見なくなる日がくるのかもしれねぇし。──けど、忘れてもいけないんだと思うんだ。まぁ、その辺ちょい複雑で……」
言葉を濁したのを悟った日南子はそれ以上、何も訊かなかった。彼女もまた、踏み越えてはならないラインというものに敏感な人種だ。
「巽さん」
「ん?」
「……もう一回、手……いいですか?」
日南子が遠慮がちに訊ねた。その意味を測りかねるも、訳もわからないまま彼女の前に手を差し出す。
「これが、どうかした?」
その質問に答えることなく、日南子が巽の手を両手でキュッと包み込んだ。ピク、と動く指。日南子はそれでも巽の手を離そうとはしない。
「……青ちゃん?」
「良かった……」
そう言ってさらにギュッ、と巽の手を握りしめる日南子の姿に、なぜか胸が締め付けられる。
「──なぁ。これ、俺的にどう対応すりゃいいのか分かんねぇ」
そう思わず言ったのは、どうしようもない照れくささから。そこそこの経験を積んで大概の事には動じなくなっているオヤジとはいえ、若い女の子にこんな事をされたらさすがに平常心ではいられない。
「……えっ、あ、ごめ……なさ、」
日南子がハッと手を離す。途端に顔をカァと赤らめる姿は、まさに天然。さっきまでこっちが照れてどうしようもないくらい大胆に人の手を握りしめていたというのに。
「青ちゃん。……そう言えば今日仕事は?」
「あ。今日はお休みで」
「ああ、なんだ……そうか」
そうあっさりと答えるところは妙に冷静なあたり、いまいち彼女が掴み切れない。
「巽さん、お腹すきません?」
「ああ。せっかくだし、飯食ってくか? 何か作るわ」
そう言って立ち上がろうとしたところを、彼女に手で制された。
「まだ無理しちゃダメです! 私、作ります。また厨房お借りしていいですか?」
「や。ありがたいけどもー、そこまでして貰うのも……」
「私、いつも送って貰ったりで巽さんにお世話になってるし……」
「や。あれくらい大したことじゃねぇしな……」
「じゃあ。今度、改めてお礼に何か頼んでもいいですか? それなら今言うこと聞いて貰えます?」
これまたいつになく強引な物言いだが、巽に無理をさせない為の彼女の気遣いなのだと思い頷いた。
「……いいけど、常識の範囲で頼むな」
まぁ、日南子に限ってないだろうが。ン十万もするブランド品とか強請られた日には、“お父さん”通り越して「援交」などと悪友に揶揄されそうだ。
「分かってますよー」
「俺も階下行っていい? 熱はだいぶ下がったし、飯くらいちゃんと座って食いてぇ」
「……ふふ。それは許してあげます」
そういって笑った楽しげな日南子の表情に、性懲りもなく心の奥がムズムズする。
「……」
「先、下りてますね」
ああ。これはちょっとヤバいやつかもしれない──。
年甲斐もなく、危うくときめきかけそうになる。勝手に火照る顔を腕で隠すようにしながら、彼女の後を追って部屋を出た。
忘れかけていた──切り捨てようとしていた感情を揺り動かすのは、どうしていつも彼女の笑顔なのだろう。
階下に降りて洗面所で顔を洗い、店のカウンター席に座りながら日南子の姿を見守る。
調理器具の場所があやふやな為、途中動きが止まったりもするが、基本的に料理慣れしているのは、その手際から十分に伺える。
昨夜作ってくれた雑炊も、工夫されていて予想以上に旨かった。
普段、カウンターの外側に座って厨房を眺めることがないからか、ここからの眺めがやけに新鮮に映る。
日南子がこのカウンター席を気に入っているのもなんとなくその気持ちが分かる気がした。ここにいれば、店の中の全てが見渡せる。お客の入りから、厨房の様子まで。ヘタすれば、どのタイミングで料理がでるのかというような細かな事まで。
「巽さん、できました。こっちに運んでいいですか?」
日南子がそう言ってテーブル席のほうへ出来上がったばかりの朝食を並べた。冷蔵庫の中の食材を上手い事使い、よく見ればけっこう豪華な朝食がテーブルに並べられている。
「いつもこんな朝飯食ってんのか?」
「まさか。巽さんにも食べてもらうんで、だいぶ盛りました」
いつだったか、こんな会話をしたことがある。そうだ、随分前に酔いつぶれた彼女をここに泊めてやった時だ。
「お口に合うかわかりませんが!」
日南子が両方の手のひらを上に向けて、どうぞと巽を席に促した。巽は促されるまま席に着く。
「すげぇ、旨そう」
「……だといいな」
ふふ、と笑った日南子が席に着いたタイミングで手を合わせると、彼女も同じように手を合わせ、二人揃って「いただきます」と言って箸を持った。
普段から日南子は食事の際の所作がきれいだ。きちんとした親にそういう教育を受けて来ているのだろう。美味しそうに料理を口に運ぶ姿はもちろんのこと、その所作ひとつにもつい目が行く。
「ん。……旨い」
シンプルな出汁巻き卵を口に入れながら呟くと、日南子がほっとしたような顔をした。
「や。普通に旨いからな? 変に緊張すんなって」
「緊張しますよー。ハードル高いんですからね? お料理作るお仕事の人に自分の手料理振る舞うのは」
「ははっ。気にし過ぎだろ」
誰かと穏やかな朝を迎えるのはどれくらいぶりだろう。
こういう何気ない時間に幸せを感じるようになったのは、歳を重ねたせいだろうか。
“──自分の幸せも考えなさい”
母親に言われた言葉を思い出した。目の前の日南子が黙々と出された食事を口に運ぶ巽を見て、嬉しそうに顔をほころばせる。
「うん。マジ、旨い」
「……よかった!」
欲が出る。彼女といると。
どういう形であれ、この笑顔を見守れる距離で過ごしたいなどという欲が。
手が届かなくてもいい。自分のものでなくてもいい。ただ、こうしてその笑った顔をみられるだけで──。