love*colors
 
 “くろかわ”の店の前まで戻って来ると、巽が日南子の手をそっと離した。楽しい時間は永遠には続かない。所詮、現実とはこんなものだ。離れがたい。もう少し一緒にいたい──そう思った気持ちを正直に言えず俯くと巽が日南子の顔を覗き込むように訊ねた。

「喉乾かねぇ? もし、少し遅くなってよけりゃ寄ってく?」
「……いいんですか?」
「けっこう歩いたし、疲れたろ?」
「はい。寄ります!」

 途端に声が弾むあたり我ながら現金だと思う。
 カラカラ……と格子戸を開けて店に入った巽に続くと、どうやら風呂上がりと思われるふく子が「あら。おかえり」と微笑んだ。今夜はふく子たちもここに泊まることになっている。

「あれ、親父は?」
「タケさんとさんざん飲んで満足したのか、先に寝ちゃったわよ。私も疲れちゃったからもう寝るわー」

「さすが早いな」
「歳取ると、朝は強いけど夜は弱くなんのよ」
「ははっ」

 相変わらずのやり取り。この二人が一緒に店に立っている時のやり取りが好きだった。

「青ちゃん、お祭り楽しめた?」
「はい。子供の頃思い出して懐かしくて! 巽さん、金魚すくい上手なんでビックリしました」

 巽が何匹か捕まえたのだが、持ち帰っても困るだけということで、結局その場にいた子供たちに分けてやったのだ。

「ふふふ。そうなのよ、子供の頃からけっこう得意だったわよねぇ?」
「あれ。要はコツとセンスだかんな」
「青ちゃんは?」
「全然ダメでした。もうちょっと上手かった気がしたんですけど」
「あ、でも。射的は上手かったよな?」
「へぇ。楽しそうねぇ」

 ふく子が目を細めて嬉しそうに笑うのを見てこちらまで温かな気持ちになる。改めて、この人たちが好きなのだと思う。

「それじゃあ、お先に。青ちゃん、ごゆっくりね」
「あ、はい。ありがとうございます」

 ふく子がゆっくりとした足取りで階段を昇って行くのを巽と二人で見送った。

「──で、何飲む?」
「じゃあ、ビールを」
「何か、つまみんなるもんあったっけか──、」

 巽が厨房奥の冷蔵庫を開け中を覗き込むと、適当なつまみを何品か手にして戻ってきた。

「青ちゃん。こっち座んな」
「あ、はい」

 言われるまま席に座ると、今度は缶ビールを手にした巽がそれを日南子に差し出した。

「缶で悪いな。店のサーバークリーニング中で」
「ふふ。缶も好きですよ?」

 二人同時にプシ、と缶を開け、どちらからともなく乾杯をする。

「退屈じゃなかったか? ごめんな、女の子楽しませる方法とかよく分かんねぇから」
「楽しかったですよ、すごく」

 これは本心。特別どこか遠くに出掛けたりしなくても、巽と一緒に過ごせたことが心から楽しいと思えた。

「なら、いいけど」
「あ。これ美味しそう! いただいちゃっていいですか?」
「どーぞ」
「いただきます」

 両手を軽く合わせてから割り箸を割った。

「遠慮なく食えよ」
「はい」

 そう返事をすると、巽がふは、と小さく笑った。さんざん食べたくせにまだ食うのかよって呆れているのかもしれない。
 でも──今の顔、好きだな。

「美味しいです!」
「そっか。青ちゃんはホントご馳走し甲斐あんなー」
「それ、褒めてます?」
「褒めてる褒めてる」

 なんだか、呆れられてるだけのような気もしなくもないが。巽が喜んでくれるなら、こんな笑顔を引き出せるのなら、できればこれからも毎日だってお店に通って「美味しいです」って伝えたい。
 本当言えば、毎日彼とこうして向かい合って食事をしたいし、笑っていたいし、もっともっと近づいて行きたい──そんなふうに思う気持ちが日南子の胸の中でどんどん膨らんで行く。

「ビール、もう一本いく?」
「はい。いただきます」
「飲み過ぎ注意、な?」
「もう! 大丈夫ですってー!」

 たわいのない会話をしながら巽と二人で楽しく飲んだ。ドキドキもするけれど、妙に安心する。彼の傍は。
 どうしてだろう。なんだか温かくて心地よくて──欲が出る。

 彼の特別な人になりたい。触れたり、触れられたり……ああしたい、こうしたいと思うことがどんどん増えていく。
 いつの間に、こんなに欲張りな気持ちを持つようになったのだろう。

「──結婚、したいな」

 思わず口から出た言葉。無意識というか、心の声が思わぬ形で口をつき、自分で言葉を発したと自覚するまでに数秒間《ま》があった。

「あ?」
「……え、あ。いや……」

 慌ててその場を取り繕おうとワタワタすると、巽がククッと笑ってそっと右手を伸ばして日南子の頭に手を乗せた。狭い二人掛けのテーブル、身体の大きな巽が手を伸ばせば、向かいに座っている日南子に手が届くのも容易い事。

「また。頑張りゃいーじゃん、婚活だっけ? 青ちゃんなら、すぐいい男見つかる。俺が保障してやるよ」

 そう言った巽の手が日南子の頭をふわりと撫でる。

「──っ、」

 巽の言葉に、瞬間頭に血が上った。
 そうじゃない。そうじゃないのだ。──他の誰かなんかいらない。婚活なんてもう、どうでもいい。
 ただ目の前にいる巽と──、と言う意味で零れ出た言葉だ。

「……嬉しくないです」
「え?」
「巽さんにそんなこと言われても嬉しくない」

 そう言った瞬間、巽の手が日南子の頭を離れた。戸惑いがちに腕を引っ込めた巽が、怪訝な顔で日南子を見つめる。

「青ちゃん? ──いや、悪い。俺また何か……」

 巽が悪いわけじゃない。ただ、日南子が自分の中で膨れ上がる気持ちと、彼の態度との温度差に折り合いをつけられずにモヤモヤしているだけ。いっそこのモヤモヤを吐き出してしまえたら何かが変わるのだろうか。

 巽が不安げに日南子を見つめる。一瞬にして張りつめた空気にどうしていいか分からずにいるのだろう。
 こんな顔をさせたいんじゃない。
 ただ、好きです。傍にいたいんです。そう言いたいだけなのに。

「……ごめん。俺、余計な事言ったな。青ちゃんだって彼氏と別れたばっかでいろいろ考えてんのにな」

 一方的に八つ当たりのように態度を硬化させた日南子に巽は尚も優しい声を掛けて来る。そういうところも、好き。ただ、それだけなのだ。

「……ち、違うの。ごめんなさい」
「や。俺が悪い。デリカシーなくてマジごめん」
「──違うんです!」

 そう少し強い口調で言うと、巽が口をつぐんだ。


 こんな態度になってしまうのなら、いっそスッキリしてしまえばいい。
 日南子はギュッ、と唇を結んでから改めて巽の目を見つめた。

「……私、巽さんと結婚したい」
「──は、」

 日南子の言葉に巽が驚いた顔のまま目を瞬かせる。当然だ。いきなりこんな事を言われて驚かない人間などいない。

「──え、ちょ、……は?」

 ただ日南子のほうも巽の戸惑いを推し量る余裕などほとんどなかった。勢いで告白をすっ飛ばした揚句、ただの願望ではあるがいきなりプロポーズをしたようなものだ。

「私、巽さんと結婚したいんです。巽さんの事好きなんです」

 目の前の巽の手から箸が床へ転がり落ちた。

「……青ちゃん? ちょ、何。酔って、る……?」
「少しは酔ってますけど。意識はしっかりしてます」

 巽の言葉が妙に自信なさげなのも、日南子が缶ビール二本程度でおかしなことを口走るほど酒に弱くない事を知っているからなのだろう。

「──待て待て! いろいろおかしいだろ? いつから? つか、そんな素振り……」
 
 普段わりと冷静な巽が珍しくうろたえている。自分の気持ちがそんなにも迷惑だったかと、少しへこんだ気持ちになるが、今更後には引けない。

「分かんないです。気づいたら好きになってました。山吹くんと別れたのも、それ自覚しちゃったからで……。こんなの初めてで、自分でも分かんない……」

 ただ、泣きだしたいような気持ちだった。
 自分の気持ちを相手に伝える、ってこんなにも勇気のいることだったのか。巽の次の言葉が怖くて本気で泣いてしまいそうだった。

「青ちゃん」

 ビクッ、と身体を震わせた日南子の顔を巽が覗き込む。恥ずかしさのあまり、逃げ出してしまいたかった。けれど、これだけは言わなきゃと、再び口を開いた。

「……私は、好きでもない人の看病に行ったりしないし、好きでもない人の為に浴衣着たりお洒落なんてしない。手を繋いだり、こうして二人きりになったりも……相手が巽さんだから、……好きだから……」

 そこまで言うと、日南子はガタンと勢いよく席を立った。
 好きだと言えたまでは良かったが、どこか責め立てるような酷い告白にいたたまれない気持ちになって、日南子はバックを掴むとそのまま店を飛び出した。

 
「青ちゃん!」

 背後に巽の声が追いかけて来たが、日南子はそれを振り切るように必死に走った。
 カラコロ、カラコロ、響く下駄の音。普段はほとんど人通りのない大通りも、今夜は人の姿がちらほら伺える。

「……っ、く」

 カラコロ、カラコロ。
 カラン、コロン。

 次第にゆっくりになる下駄の音。気づけば目には涙が滲んでいた。

「……バカみたい。いきなりあんな、」

 いくら恋愛初心者だからって、もっとよく考えて行動してたらもう少し上手くできたかもしれないのに。
 
「逃げちゃった……」

 咄嗟に逃げだしてしまったのは、いたたまれなさもあるが、やはり巽の言葉を聞くのが怖かったから。
 さっきの巽の態度を見てれば分かる。日南子をそういう対象としてすら見ていないのがはっきりと分かるほど、予想外の出来事に驚いていたようだった。
 その場合、導き出せる答えとして、色良い返事が貰えることは考えにくい。

 日南子の事をそういうふうには見られない。他に、忘れられない人がいる。どちらも聞きたくない答え。
 傍にいられるだけで良かったのに、彼の店に通って楽しい時間を過ごして、その笑顔をみるだけで良かったはずなのに──。

「もう。ほんと、バカ……」

 大人になったら、誰でも上手に恋ができるんだと思ってた。
 大人になったら、誰でも普通に幸せな結婚が出来るんだと思ってた。

 大人だからって、何でも上手にできるようになるわけじゃない。むしろ、想像よりカッコ悪くて、なにひとつ上手くやれない。

「───巽さ、」

 言葉にしたらますます強く自覚した。

「好きです………、好き」

 どう伝えたら良かったのだろう。
 告白に正解なんてないのは分かってる。
 けれど、あまりに予想外だった。溢れだす気持ちを抑えきれなくなるほど好きになっていたなんて──。




 
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