love*colors

  *  *  *


「青野ー、電気お願い」
「あ。はーい!」

 遅番で店を閉め店舗スペースの照明を落として事務所に入ると、すでに人気のない事務所に珍しい人影をを見つけ、日南子と雪美が同時に「あ!」と声を発した。

「お疲れっす」

 事務所にいたのは、以前美原店勤務だった灰原。半年ほど前に田苑店に移動になり、最近ではここで顔を合わせるのは珍しい。

「あれ? 灰原、久々じゃん。何してんの?」

 雪美が思いきり砕けた口調なのは、彼の店舗研修時代の教育係だったから。灰原はクールな雰囲気の見た目とは裏腹に、けっこうな毒を吐く正直な性格で、これまた裏表のないはっきりした性格の雪美とよく気が合っていた。

「ちょっと野暮用で。藤倉さんから頼まれてた商品こっちに届けに」
「へぇー、そうなんだ。あ、そーだっ! あんた今から暇?」
「は? なんすか?」
「青野と今からご飯いくんだけど、いっしょにどう? あ、奢んないけど」
「や。いいっすけど──、どこ行くか決まってんすか?」

 灰原が日南子に聞いた。

「ううん? 全然。灰原くん希望ある?」
「そーすね、“くろかわ”行きませんか?俺も青野さんも家近くてラクじゃないすか?」

 そう言われてギク、とした。あれからまだ日南子は“くろかわ”に顔を出せていない。

「あんたの都合かい!」

 雪美が笑いながら彼に突っ込みつつ、チラと日南子を見やりニッと笑った。

「青野。灰原行きたいって! ……そろそろいんじゃないの? 今日は二人も連れいんだから。あんたも限界でしょう」
「……う、」

 連日送られてくる巽からの写真付きメッセージの食事に誘惑と、巽自身に会いたくて仕方ない気持ちがそろそろ我慢の限界を迎えているのは確かだ。

「あれ。青野さん、最近行ってないんすか?」
「ああ、うん。ちょっと……ね」

 苦笑いではあるが、どうにかそれを誤魔化そうとしたところを

「ちょっと理由アリでー」

 と面白がるように吹聴しそうな勢いの雪美の口を「ちょっ、雪美さんっってば!」と日南子が慌てて手で塞いだ。

「なんか、マズイんすか?」
「あー、いいの! まずくない、まずくない!」

 そんなこんなで半ば流されるように“くろかわ”の暖簾をくぐることになった。ちょうど良かったのかもしれない。
 こうしたきっかけでもなければこのままあの店に足を踏み入れることができなくなりそうで、怖かった。日南子が腹を括らなければならない時期は、遅かれ早かれやってくるし、できればその時期は早い方がいい。


 いつものバス停の前の“くろかわ”の店内から漏れる明かり。いつも目の前まで来ていながら、日南子はこの格子戸を開けることができずにいた。
 そんな迷いや葛藤などお構いなしに、雪美と灰原がカラカラ……と格子戸を開けた。たかが数週間ぶりの店の匂い。懐かしいと思ってしまうあたり、一体いままでどれだけ通い詰めていたのだろうと思う。

「こんばんはー」
「お。いらっしゃい。珍しい組み合わせだな」

 雪美や灰原の背中に隠れるようにして聞いた久しぶりの巽の声。この声を聞いたけでなんだかほっとする。

「や。珍しくないすよ。超常連もいますし」

 灰原が振り返った為、日南子はその隙間から小さく顔を出した。その瞬間、カウンターの中の巽と目が合ってドキッとする。

「お。おかえり、青ちゃん」
「……こんばんは」

 “おかえり”は巽のいつもの言葉。灰原や雪美には“いらっしゃい”なのに、日南子には“おかえり”という特別な言葉を掛けてくれる。あだ名で呼んでくれる。そんな些細な事にさえドキドキと心臓が落ち着かない。

「三人だし、こっちにしよっか」

 雪美が気を利かせて、普段座っているカウンター席を避けてテーブル席に着いた。そのさりげない心遣いにほっとする。口では茶化すような事をする雪美だが、その線引きラインはしっかりとわきまえた大人だ。
 あんな告白をして巽の前から逃げ出しておいて、さすがに巽から近いカウンター席に座れるほどの度胸は日南子にはない。そういう事も見越しての雪美なりのフォローだということくらい日南子でも察しがつく。
 
「とりあえずー。ビールとチキンカツ定。灰原は?」
「俺は豚生姜焼き」
「青野は?」
「私は、焼き魚にします」

 メニューをほとんど見ることもなく、しかも何の迷いもなく決めたのは、今日も巽から写真付きお薦め定食のメッセージが送られてきていたから。本日の魚は日南子の好きな秋刀魚だった。巽はそれをちゃんと分かっている。
 そんなふうにしてまで、日南子を毎日店に誘ってくれること、今まで嬉しくなかったはずはない。

 もっと早く来れてたら良かった。意地を張らずに来れてたら良かった。
 ガヤガヤと騒がしい店内。オーダーに対して返事を返す巽の声を聞いただけで、胸がギュッとなる。たかが、声を聞いただけで胸が痛くて堪らないとか──、一体どれだけ巽の存在に飢えていたのだろう。
 

 ラストオーダーの九時半を過ぎ、バイトの富永が表の暖簾を下げに出て行くのを見送りながら雪美が時計を見て眉を上げた。店内にはもう私たち以外客はいない。平日の客引きの早さなどどこも似たようなものだろう。

「そろそろ帰るか。明日も仕事だし。灰原ちょっと遠くてアレだけど送ってよ」
「えー、俺がっすか?」

 露骨に嫌そうな顔をする灰原に雪美の舌打ちが聞こえた。雪美の自宅までは車で十五分ほどでさほど遠くはないのだが、灰原の家とは逆方向の為、それがたぶん面倒なのだろう。そういうところを隠しもしないところが、灰原のある意味いいところだ。

「もしよければ、俺送りましょっか? 家、どの辺りですか?」

 そう言ったのは暖簾を下げて店に戻ってきたバイトの富永。瞬間、なるほど…と思ってしまうのは日南子が富永の雪美に対する淡い恋心を知っているから。

「いいじゃないっすか、そうしてください。俺より若いし、いい男に送って貰えたほうが白井さんも嬉しいっしょ」
「あんたねー! 自分が送りたくないからって酷くない? たまにしか来ないお店の子に送って貰うなんて気ぃ使うじゃないの」
「いやいや。俺にも使ってください」
「マジ、ムカつくわコイツ」

 こんな言い合いも同じ店にいた頃は日常茶飯事の見慣れたもの。べつに仲が悪いわけじゃない。どちらかといえば遠慮のない仲とでもいうのだろうか。

「俺、今日車で。仕事もう上がりなんで良かったら」
「ホント、いいの?」
「もちろんですよ。嫌だったらそもそもこんなこと言い出しませんし」
「じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな。知らない仲じゃないし」

 雪美の言葉に富永がパッと表情を明るくした。

「俺も帰ります。青野さんはどうします?」
「──あ、うん」
 
 一瞬迷ったのは、このまま灰原に送って貰えば巽と二人きりになることを避けられると思ったから。でも、ここで巽を避けて逃げてしまったら今夜腹を括りここにやって来た意味がなくなってしまう。

「私は、──もう少しいる」
 
 そう答えると、カウンターの中にいた巽が顔を上げた。

「灰原くん、平気だよ。俺、送るし」

 巽の言葉に灰原が頷き、手際良く会計を済ませると「ごちそうさまでした」と言って店を出て行った。そのあとを追うように雪美や富永も店をあとにする。
 そして最後に残ったのは日南子だけ。カウンターから出て来た巽が日南子のいるテーブルを片づけ始めた。

「青ちゃん、こっち来な。コーヒー淹れるから」

 そう言って巽が日南子をいつものカウンター席に促した。

 
 日南子は黙っていつもの席に座った。
 久しぶりに会う巽を目の前に、何を話していいのか、どんな距離感で接したらいいのか分からずただ黙ったままコーヒーを淹れる彼の手元を眺めた。
 骨ばった手の甲、細く長い指。こんなところも好きだなと改めて思う。

「……ごめんな、狡いことして」
「え?」
「飯でおびき寄せるみたいな真似して」

 多分あのメールのことを言っているのだろう。申し訳なさそうに眉を下げた彼の表情にすらキュッと胸を掴まれている。何もかもなかったことになんて出来ない。日南子の心は、気持ちを自覚してなかった頃にはもう戻れない。

「……ホント、狡いですよ。私が巽さんのお料理好きな事知ってて」
「面目ない」

 良かった。意外にもいま彼と普通に話せている。ジワと豆の蒸れる香り、ポタと滴る液体。コーヒーの香ばしい香りが店内にふんわりと広がっていく。

「このまま変なふうになんの嫌だからさ。けど、俺が青ちゃん追っかけまわしたら、それこそ迷惑だろうしって──。青ちゃんが、顔出してくれる気になるまで待ってようと……」

 巽がカップを日南子に差し出した。

「とりあえず、顔出してくれたっつーことは……このまんま二度と店に来ないって展開は避けられたと思っていいのかな」

 普段よりどこか言葉が遠慮がちなのが、少し可笑しく思える。日南子に気をつかっているのは一目瞭然だが、いろいろ思い出したら少し腹が立って来て思わず意地悪な質問をした。

「巽さんにとってはどっちが良かったですか?」
「え、」
「私がこのまま姿を現さないのと、そうでないのと」
「そりゃ……来てくれるのほうが嬉しいに決まってんだろう」
「じゃあ。少しは期待してもいいって事ですか?」
「……」

 巽がぐっと言葉に詰まった。
 それはすなわち、期待は、するな。でも店には来ていいよ、的な?

「やっぱ。狡いです、巽さん」
「──そうだな。俺、狡いな」

 巽が自嘲気味に笑った。胸が痛い。こんなことなら、ただの常連客のほうがずっと居心地が良かった。

「──俺な。もう恋だの愛だのってのからはできるだけ離れていたいんだよ」

 巽が静かな口調で話し始めた。

「……どうしてですか?」
「昔、ちょっとあって──。トラウマっつーんじゃないけど、そういうのから離れて生きていけたらなって思ってて」

 巽の口調からもやはり過去に何かあったという事は歴然だが、それは巽にとってこれから一生何があっても変わらないほど深い傷なのだろうか。
 人は生きていく限り何かを失ったり傷ついたりを繰り返す。けれどそれは永遠ではない。何かを失った分、何かを得、傷ついた分癒されたりもする。

「それは、あの夜うなされてたことと……関係ありますか?」
「──ああ。まぁ……そうだな」
「巽さん、言ってましたよね? それはずっと続くのかって聞いたら、そうじゃないかも……って。でも忘れちゃいけない、って。私、巽さんに何があったのか知りたいです」
「……」

 巽が日南子の気持ちを拒む理由がそこにあるのだとしたら、納得できるだけの材料が欲しい。けれど、巽にとってはそこにはあまり触れて欲しくないのかもしれないというのが雰囲気で分かるだけに、どこまで触れていいのか判断に迷う。

「……じゃあ、質問を変えていいですか?」
 
 これじゃまるで尋問のようだが、聞けることは聞いておきたい。

「──私の事、迷惑ですか?」

 即座に肯定されるのが怖くて、訊ねた声があからさまに小さくなった。恐る恐る巽を見ると、巽が優しげな瞳で日南子を見つめている。

「迷惑じゃ、ねぇよ。正直に言えば嬉しいと思う」

 その言葉に日南子はカチャと手にしたカップをソーサーに置いた。

「青ちゃんの気持ち、すげー嬉しかった。今も嬉しいって思ってるよ。だってそうだろ? 青ちゃんみたいないい子が自分のこと好いてくれんの、……そりゃ嬉しくないわけねえよ」
「……じゃあ、」
「──けどな。俺、ダメなんだ。この先、そういうふうに誰かを大事にできない」
「……」

 やはり彼は狡い。迷惑ではないと言っておいて、日南子の気持ちを受け入れてもくれない。けれど、そんな曖昧な理由ではここまで膨らんだ気持ちを抑えることなど日南子にとって最早不可能な事だった。





 

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