love*colors
 
 それから三十分が経ったが、日南子が乗るバスが着く四番乗り場に次のバスは一向にやって来ない。もちろんここだけではなく、どこの路線にも遅れが生じている様子だった。
 暇つぶしにスマホで情報を調べたりしているうちに、電池がみるみる目減りしていく。最近のスマホは電池寿命も格段に上がり、一日おきにしか充電をする習慣のなかった日南子のスマホ今朝の時点で半分と少し程度の電池残量だった。
 普段なら家に帰りつくまで問題ないのだが、すでに電池残量は十パーセントを切った。

 スマホを閉じて、辺りを見渡した。
 再び雪が強くなり、ハラハラと舞う雪が辺りの景色を白く染めていく。

「……寒っ、」

 ハァ、と両手に息を吐くとその指先が冷たい鼻に触れる。首元のマフラーを鼻の上まで引き上げてできるだけ顔を覆った。

「うわ。──松前のあたりで、接触事故だってよ」

 急に隣の乗り場が騒がしくなり、バスを待っている人たちの噂話が聞こえてくる。夜が更け、路面が凍結しているところも出ている可能性もある。だとすれば、こうした事故も各地で発生しているはずだ。
 改めて、巽に迎えを頼まなくて良かったと小さく息を吐いた。巽に何かあったらなどと、考えたくもない。

「──同じ、なのかな」

 巽も日南子の帰りを同じような気持ちで待っているのだろうか。そう思うと気が急いてくる。

 早く、帰りたい。
 彼の顔が見たい。

 普段特に気に留めることもないが、何事もない平凡な日常がどれほど幸せな事かと実感する。

 そうこうしている間に時間は過ぎ、日南子がバスに乗れたのは一時間後。

≪──このバスは○○線△△行きです。本日悪天候のため大幅に遅れが生じご乗車の皆さまには大変ご迷惑をおかけしております。当車は、安全の為、引き続き徐行運転を行っております。ご了承ください≫

 大幅に遅れて駅を出発したバスに揺られ、日南子は通りに車が連なる窓の外を眺めた。
 
 
 再び激しく降り出した雪。窓から眺める見慣れた景色が、白い化粧を施されて普段とは違った景色に見える。普段なら十五分ほどで着くバスでの道のりも、駅前の渋滞を抜けるのに予想以上に時間が掛かった。
 ようやく降車バス停に着き、日南子が慌ててバスを降りた先に巽が傘を差して佇んでいたことに驚いた。
 
「──巽さん?!」

 黒い巽の傘には雪が降り積もり、来ているダウンジャケットにもところどころ雪が積もっている。
 ぎこちなく笑った巽の顔は、鼻の頭が真っ赤になり、長い時間外でこうしていたのだということが一瞬で見てとれた。

「……」

 この人は、どれだけの時間ここで自分の帰りを待っていたのだろう。そう思ったらどうしようもなく胸が熱くなった。

 巽が差していた傘を放り出した瞬間、その傘が風で煽られて歩道をコロコロと転がって行く。咄嗟に追いかけようとしたその腕を強く掴まれ、日南子はそのまま巽の腕の中に強く閉じ込められた。

「──よかった、」

 巽が掠れた声で言った。

「……巽さん?」
「無事帰って来てよかった……」

 あまりの力強さに、息をすることさえ苦しくなる。その腕の強さとは裏腹に彼の身体は震えていた。

「──迎えに行きゃよかった」
「……どうしたんですか? 私なら大丈夫です。バスが少し遅れただけです」
「さっき。どっかの路線で事故あったとかネットで見て──、青ちゃんからあれきり連絡ねぇし、電話も出ねぇし何かあったのかと……」

 そう言って大きな息を吐き出した巽に日南子はハッとした。

「巽さん……」

 ただ、心配を掛けただけではない。もしかしたら、日南子は巽に一番してはいけない事をしたのかもしれない、そう思ったら胸に熱いものが込み上げてそれがそのまま涙となって込み上げてくる。
 未だ、過去の事故のトラウマから立ち直れず苦しんでいる巽に、あの時と似たような恐怖を与えてしまったのだとしたら──。

「……ごめんなさい。心配掛けて」

 結局、自分のことばかり。彼がどんな思いでいたのかなんて、もっとよく考えたら気がつけたはずなのに。
 彼に会える、という浮かれた気持ちにいろんなことを見失っていた自分が恥ずかしくなった。
 たとえ状況に変化がなくとも。もっとこまめに連絡を入れていれば、日南子が無事であることは伝えられたはずだし、巽にこんな思いをさせることもなかったはずだ。

「何で青ちゃんが謝んの」

 巽が小さく笑った。日南子はいまだ巽の腕に強く抱きしめられたまま。耳元で優しい彼の声が響く。日南子はおずおずと彼の背中に手をまわした。大きな背中がまだ少し震えているのが切なくて愛しい。

「……だって。私、巽さんがどんな思いでいるかなんて考えもしないで」

 彼が、どれほど癒えない傷に苦しんでいるか知っていたくせに。
 彼が、どれほど身近な人を失う恐怖を抱えているか知っていたくせに。

「格好悪いの承知で正直に言っていいか?」

 日南子はそう訊ねた巽の言葉の続きを待った。

「──怖かった。記憶が嫌な方に繋がって……もし青ちゃんの身に何かあったらって居ても立ってもいられなくなって」

 日南子は巽の背中に触れる手に力を込めながら静かに目を閉じた。やはり、辛い事を思い出させてしまっていたのだ。そういう機会を少しでも軽減したいと思っていたはずの自分が、自ら巽に──。そう思ったら涙が滲んだ。
 心の中で巽に何度も何度も謝りながらただ静かに巽の言葉を待つ。

「けど。──分かったこともあるよ」

 巽の手がゆっくりと日南子の肩を包み、そっとその身体を離す。

「怖かった。──青ちゃんを失いたくねぇって」

 巽が日南子の目を真っ直ぐに見つめた。

「あんな思い二度としたくない。大事なもの、二度と失って堪るかって──」
「……」
「もう後悔したくねぇ。……俺、青ちゃんが好きだよ」

 巽の言葉に、堪えていた涙が静かに頬を伝う。

「青ちゃんの真っ直ぐな気持ち、誤魔化してごめん。逃げてごめん。……もう、逃げたりしねぇから。誤魔化したりもしねぇから。──ずっと俺の傍にいてくれよ。俺も強くなる──、過去なんか乗り越える……だから、」

 胸が熱い。彼の気持ちが、その言葉から、瞳から、体温から伝わる。
 それだけで十分だった。この瞬間、他になにもいらないと思った。

「……好きです。巽さんが、すき、……ずっと傍にいたい」

 ギュッと巽の背中に腕をまわすと、彼も同じように日南子を抱きしめた。

 外はまだ、雪が降っていて。冷たい風が吹いていて。耳が痛くなるような凍えるような寒さだったけれど、少しも寒いと思わなかった。彼の腕の中は温かい。その温かさに、いつまでも涙がとまらなくて、私たちはバカみたいにそこで抱き合っていた。

   *
 
 ようやく身体を離すと、巽が融けた雪のついた眼鏡のレンズ越しに真っ直ぐに日南子を見つめた。
 寒さで赤くなった耳、そこだけ赤くなった鼻。降りしきる白い雪が粒になって顎髭にも付いている。

 日南子はそっと手を伸ばして震える指で巽の顎髭に触れた。ザラザラとした感触を確かめるようにゆっくりとそこに触れ、そっと指先で彼の唇に触れる。
 冷え切った少しカサついた唇。その唇が小さく動いて日南子の指先を口に含んだ。

 驚いてビクッと指を引っ込めると、今度は巽が手のひらで日南子の頬を包み込む。
 その手がゆっくりと顎に添えられ、巽の顔が近づいてくるのをぼんやりと見つめたまま静かに目を閉じた。

 冷たい唇が日南子の唇にそっと重なる。
 触れただけですぐに離れた唇。あっという間の事に寂しさを感じて目を開けると、巽が今まで見たこともないような優しい瞳で日南子を見つめていた。

「……なんつぅ顔してんの」
「え、」

 自分は今、どんな顔をしているのだろう。

「止まんなくなるから勘弁して」

 そう言った巽が照れくさそうに赤い鼻を擦った。

「こんなとこいたら凍え死ぬ。行こ。飯出来てっから」

 巽が日南子に背中を向けて、歩道に転がった傘を拾い上げた。
 それからそれを差し日南子のほうへ戻って来ると、こちらに向かって片手を差し伸べた。
 この手を掴んでいいのかと迷っていると、彼が強引に日南子の腕を取り、手を繋いだかと思うとその手を合わせるようにしてしっかりと絡ませて、自分のダウンジャケットのポケットに入れた。
 
 ──温かい。

「巽さ、」
「──もう、遠慮しねぇから」

 絡められた指先。彼がその指先にギュッと力を込め、日南子はそっとそれに応える。
 
「もし、振りほどくなら今が最後のチャンスだぜ?」

 巽が訊ねた。けれど、その指は依然強く絡められたままで、そんな気持ちなどないのだと言われている気がした。

 ようやく繋いだ手。ようやく受け取ってもらえた気持ち。
 たとえこの先、どんなことがあっても──。

「……離すわけないじゃないですか」

 自分で選んだ彼の手を。
 自分で選んだ彼の隣を。
 大好きな男性が傍にいることを許してくれる限り。

   *

 店の中はとても温かかった。
 テーブル席のひとつに、二人分の食卓の準備がされていて、彼が自分を──。今夜、日南子だけの帰りを待っていてくれたのだということが一目で分かり胸が熱くなった。

「荷物そっち置いて。そこ、座ってな。料理すぐ温める」
「あ。じゃあ、運ぶのだけでも手伝います」
「青ちゃんも飲むだろ? ビール頼むわ。サーバー分かる?」
「はい。ここ捻るだけですよね?」

 いつもカウンターから巽や富永がビールを注ぐのを見ているのを見よう見まねで実践。それをテーブルに運ぶと、今度は出来上がった料理を運ぶ。
 こうしているとまるで恋人同士にでもなったみたいだ。なんて思いながらハッと手を止める。

「……あれ? なった……、のかな?」

 今更ながら自信がなくなって来る。バスを降りてから店に入るまでの一連の出来事がまるで夢だったようにも思えてくる。

「ん? どした?」
「あ。なんでもな……」
「座って。飯食おーぜ」

 さっきのは現実ですか。それとも私の妄想ですか。などと聞けるはずもなく巽に促されるまま席に着く。けれど、テーブルに並んだ料理を見て「うわぁ!」と感嘆の声を上げた瞬間、いろんなことが頭から飛んだ。
 店の定番メニューとは一味違った創作料理に目を見張る。

「美味しそー! これ何ですか? ローストチキン?!」
「ああ。ちょっと和風にアレンジしてみた」
「ふふ。こっちの小鉢なんかも色合いがなんかクリスマスっぽい」
「ちょいフライングだけど。一応、クリスマスディナーっつーことで」

 巽が少し照れくさそうな顔をしながら席に着く。

「いろいろグダグダんなって悪かったけど。俺なりに考えてたんだよ。青ちゃんの気持ちに応えんにはどうすんのが一番喜んでもらえるかって……。ホントはもっとカッコよく好きだって言うつもりだったんだけど、雪なんか降って、バス遅れていろいろテンパって──、全部ポシャったっつー、ははっ」

 巽の顔がほんのり赤くなる。
 今夜日南子を誘ってくれたのも、すべては気持ちに応えてくれる為。巽なりに日南子の事を想ってのことだったということに胸が熱くなる。

「……グダグダなんかじゃないです。巽さんが私のこと考えてしてくれたんだってことが、嬉しくないわけないじゃないですか」

 夢なんかじゃない。目の前の巽が柔らかく微笑むのと同時に日南子の腹がキュル、と音をたてて、それに気付いた巽がフッと吹き出す。

「──ま、いっか。腹減ったし、食うか」
「はいっ!」

 ぎこちなく見つめあいながら二人同時に手を合わせた。

「「いただきます」」

 二人きりの食卓。どんな料理だってこの人と食べたら美味しいと思う。
 何があったって、この人が目の前で笑ってくれたら幸せだと思う。。

 誰かを愛するって、きっとそういうこと。


 
  
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