love*colors
「ほら」
「いただきます」
食事を終え後片付けを済ませた後、巽がコーヒーを淹れ、そのカップを日南子に差し出した。巽はテーブルの上にカップを置いたまま窓際まで行き、曇った窓を指でキュキュ、と擦って外の様子を窺った。
「うーわ。真っ白……」
「え、本当?」
日南子も飲みかけのコーヒーカップを置き、席を立つ。そっと巽の隣に立ち、同じように窓をキュキュと擦って外を眺めると、そこは想像以上の真っ白な世界が広がっていた。真っ白とは言うものの、実際に積もっている雪はわずか数センチ。
「さっきもけっこう降ってたけど、さっきよりもまた積もったな」
「こんなの久しぶりですね……」
この辺りは温暖で風も強い地域。こうした雪が降ったとしても、強風に飛ばされて積もることなく融けて消えていくことがほとんど。景色が白く変わることなど滅多にないことだ。
「私が子供の頃にも一度酷い雪が降って……その時は、家の庭にわずかに積もった雪をかき集めてちいさな雪だるま作ったの覚えてます」
「つーか。この分なら明日の朝作れんじゃね?」
巽が笑いながら言った。また子供扱いだ。
「……もうそこまで子供じゃないですぅ」
少し膨れて見せると、巽が楽しそうに眉を上げて日南子の頭をそっと撫でた。そっと触れた手に以前よりもドキドキするのは、巽が自分をみつめる目に以前とは違った光が宿っているような気がするから。
「──コーヒー飲んだら送ってく? それとも朝までここにいる?」
「え?」
「や。……俺の希望の前に、青ちゃんの希望聞かねぇと」
いつのまにか選択肢が増えている。以前はコーヒーを飲み終えたら“帰る”一択だった選択肢に違う項目が付け加えられている。ただの常連客でなくなった日南子には、自分次第で好きなだけ彼と過ごせる時間を増やせるということ。
けれど、朝まで彼と──ということは、つまり。
「……あ、」
日南子が答えに詰まると、巽がクスと笑って日南子の頭をクシャッとかき混ぜた。
「心配すんな。いきなり取って食ったりしねぇから。それくらいには大人っつーか、な?」
「……そ、そういう意味じゃ」
「一瞬でも考えなかった? それはそれでヘコむけど」
「……」
「明日休みだったろ? 青ちゃん嫌じゃなきゃ──、だけど」
巽にこんなことを言われて日南子が首を横に振れるわけなどない。日南子だってこのまま巽といたいと思っている。
「……嫌なわけないです」
一緒にいたいと素直に言えばいいのに、照れくささが邪魔をする。巽も同じなのだろうか、嬉しそうに笑い返す笑顔がどこかぎこちないことにその気持ちが表れているような気がして胸がキュッとなった。
「コーヒー冷めちまうな」
思い出したように窓から離れた巽を追うように、日南子も再びテーブルに着く。カップを持ち上げる巽の手元をこっそり覗き見る。骨ばった大きな手。長い指が意外と綺麗だと思う。
「ふふ。美味しい」
何気なく呟いた言葉に巽が目を細める。
ドキドキして、照れくさくて。落ちつかないのに、それがなぜか心地いい。
*
翌朝目を覚ますと、目の前に広がる見慣れない景色に一瞬頭が混乱する。──が、見覚えのある天井、布団からほのかに香る巽の匂いに自分がいまどこにいるのか、昨夜何があったのか──さまざまな記憶が繋がり出した。
ゆっくりと身体を起こすと、壁際のハンガーラックの一番端に日南子の服が掛けられている。昨夜巽から借りたスウェットの袖をまくりながら、その袖口に鼻を寄せた。
「……ふふ。巽さんの匂いだ」
昨夜は結局、巽は自分のベッドを日南子に譲り、自身は以前彼の両親が使っていた部屋を使った。
恋人同士だったら同じベッドで寝たりするのが普通なのだろうが、いままでまともに男性と付き合ったことのない日南子の気持ちを優先してくれる辺り、彼はやはり大人だと思う。
日南子だって、子供ではない。
経験のない事とはいえ、いい歳した大人だ。好きな相手とそういう関係になることを望んでないわけではない。けれど、巽の気遣いにどこかほっとしてしまったのも事実。
昨夜、この部屋で以前のように本を見せてもらい、棚の一番高いところにある本を取ろうとした日南子に気づいた巽が背後に立ち、巽がその本を手にして手渡してくれる際にどちらからともなくキスをした。
ただ唇が重なるだけの軽いキス。巽がそれ以上踏み込んで来ないのも、多分日南子への気遣い。そんな気遣いが嬉しくもあり、少し寂しくもあった。
初めて知った。
唇が触れただけであんなにもドキドキすること。
思い出すだけで胸がキュウっと幸せに締めつけられること。
もっと触れたい、触れられたい、そんな欲が自分の中に強く在ること。
階下から出汁の香りと心地よい物音。
すでに巽が起きて朝食の準備をしているのかもしれない。
トントントン、と階下から階段を昇って来る足音が聞こえたかと思うと、少し開けられた襖の隙間から巽が遠慮がちに顔を覗かせた。
「あ。起きたか?」
随分前にもこんなことがあった。あの時は彼をこんなふうに好きになるなど思いもしなかった。
「……おはようございます」
「おはよ。寝れた? 飯、食うだろ? 着替えたら降りてきな」
「はい」
起きたら彼に言いたいことはたくさんあったはずなのに、なんだか胸がいっぱいになって何一つ口に出せなかった。
朝起きて、一番最初に見る顔が好きな人であるということ。「おはよう」のひとことが、こんなにも幸せな事。恋をしなければ知らずに過ごしていたことばかりだ。
言われた通り着替えを済ませて下に降りていくと、テーブル席のひとつに朝食が用意されていた。
日南子に気づいた巽が、目を細める。
「あ。巽さん、これありがとうございました」
「ああ……スウェットか。だいぶ大きかっただろ?」
「洗濯してお返しします」
「はは。いいって。奥に洗濯機あっから、そこ突っ込んどいてくれると助かる」
「……え、でも、」
「そんな気ぃ使うなよ。……これからもずっとそうする気?」
これから、ずっと。
「毎回それじゃ、疲れんだろ。変に遠慮すんな。青ちゃんの場合、ちょっと図々しいくらいでちょうどいいんだよ」
クスと笑った巽がすれ違いざまに、日南子の頭をクシャッと撫でた。
「……」
顔が緩む。たったそれだけのことで。
心臓が跳ねる。ほんの少し触れられただけで。
これから、ずっと──なにげない巽の言葉が嬉しかった。昨夜の事は夢じゃない。私たちは確かに、変わったのだ。ただの店主と常連客から。お互いを愛しく思う特別な存在に。
「ほら。分かったらさっさ行く! 腹減ってんだろ? 早く飯食おうぜ」
「──はいっ!」
テーブルの上に並べられた朝食は、純和風の定番朝食。
「いただきます」
二人同時に両手を合わせ、顔を見合わせ微笑んでから箸を手に取った。出来たての味噌汁の匂いを思いきり吸い込んでから口を付けた。
「……やっぱり、美味しい。巽さんのご飯」
「ははっ。そんなに言うならマジ毎日食わしてやろっか」
「……えっ?」
「前言ってたろー? 毎日でも食いたいって」
「言いましたけど……」
日南子は熱くなる顔をそっと撫でた。あの時と今とではその意味するものが全く違う。
あの時は、ただ純粋に巽の料理だけに惚れこんでいた感が強かったが、今は違う。料理云々よりも巽自身が好きで傍にいたいと思っているのだ。その意味を分かっているのかいないのか、あまりに気軽にそんな言葉を口にする彼にどこかうらめしい気持ちになる。
巽の言葉にそこまで深い意味は含まれていないのだろうが、日南子の心臓は朝からちょっとしたことでやたらドキドキと忙しい。
「──顔、真っ赤。可愛いな」
「だって。巽さんが変な事言うから……」
「はは。変な事って酷でぇな」
「……」
「好きだっつったのと、傍にいて欲しいっつーのは、俺にとってもそーいう事」
巽が少し照れくさそうな顔でそう言ったかと思うとパクッと大口を開けてご飯を放り込んで、なんでもないように振る舞う。
「箸止まってるぞ? たくさん食えよ」
「……はい」
昨夜からドキドキさせられてばかり。幸せな気持ちをもらってばかり。胸がいっぱいでどうしようもない。
朝食を済ませ、日南子はその後片付けを買って出た。
せっかく彼との関係が変化したというのに、朝食は全て巽に任せてしまい、結局いままでと変わり映えしない自分。せめてこれくらいは、と思い動かす手が弾むように軽いのは、巽の為に何かできることが嬉しいから。
「巽さん、終わりましたー」
「おお。サンキュ。悪いな」
「悪いだなんて。朝食ご馳走になっちゃってるしこれくらい……」
そう言うと巽がクスと小さく笑った。
「そーいうこと青ちゃんのいいトコだけど。もっと力抜きな?」
「え?」
「飯も俺がしたくてしてることだし。青ちゃんだってそうだろ? 自分がしたくてしてることには黙って甘えてくれた方が嬉しくないか?」
「……」
確かにそうだ。自分がしたくてしていることを素直に受け取ってくれたほうが嬉しいのは事実。
「前々から思ってたけど、甘え下手だろ?」
「そんなこと、」
「あるって、絶対」
「……」
小さいころから変に空気の読めるところがあり、人に迷惑をかけないようにと過ごしてきた。親にもあまり我儘を言ったことはなかったし、友達にもどこか遠慮がちだったかもしれない。日南子が唯一、素のままでいられるのはたぶん緑の前でくらいだ。
「まー、急にっつっても性格もあんだろうし。少しずつ……な?」
「はい」
「俺も、いろいろ小出しにしてくし」
そう言ってニヤと意味ありげに笑った巽の顔を日南子は凝視する。
「え? ……いろいろって何ですか?!」
「そりゃー、いろいろだよ。青ちゃんが知ってる俺が全てじゃないかもしんねぇし?」
「やだもう。言い方怖いです」
「嫌んなる?」
どこか日南子の気持ちを試すような聞き方。なのにそんな優しい目を向けられたら文句も言えやしない。
「なりませんけどっ……」
「……はは、」
どんな彼だって知りたいと思う。
温かいところも優しいところも。弱いところもズルイところも。
彼にも知って欲しい。
こんなにもあなたを好きな事。こんなにも傍にいられることが嬉しいこと。