love*colors
【8】黒川 巽の場合④
年明けから日が経ち、正月気分もすっかり抜け切った一月半ば。強い北風が店の出入り口の格子戸をカタカタと揺らす。時計を見るとすでに午後八時過ぎ。今夜は冷えるせいか客足も少ない。
そんな中、カラカラ…とその格子戸を開け、暖簾の隙間からこちらを覗いた見慣れた顔が「よぉ」と小さく片手を上げた。
「──久々だな」
「ちょい仕事立て込んでてなー」
そう答えた赤松がコートを脱いでお決まりの席に座った。何も訊かずにおしぼりとビールを用意するのは、この男の行動をすでに読んでいるから。
「あれ。今日、富永くんは?」
「休み。なんか、風邪ひいて熱出してるっつー話」
「なんだ。じゃあ、おまえ一人かよ?」
「ああ。どーせ暇だし丁度良かった」
そう答えてビールを出すと、赤松がそれを受け取って早速グラスに口を付けた。
「はーぁ。旨めぇ」
「飯は?」
「ああ。お任せでいいわ」
「了解」
そう返事をしてすでに出来上がっている兜煮に火を掛けた。店には赤松の他に客が2組ほど。料理はすでに出し終えているため、最後の会計以外に特に気を配る必要もない。
「正月何してたよ?」
赤松がビールを片手に訊ねた。
「特に代わり映えしねぇよ。親父ら呼んで飯食って──、四日からは通常営業」
「そっちは?」
「──俺は大学ん時の連れとスキー。久々だったな、家族以外と過ごす正月なんて」
「……へぇ」
去年までは赤松にも家族があった。毎年正月には東北の妻の実家に顔を出しに行き、そのついでに夫婦で旅行を楽しんだりしていた。
「スキー、楽しかったか?」
「おうよ。久々ガッツリ滑ったら見事筋肉痛よ。マジ、歳感じたわ」
「ははっ」
口ではそう言いつつも、思いのほか明るい赤松の笑顔にほっとする。この男にはいろいろと借りもある。離婚後の生活がやつにとってそれなりに楽しいものであって欲しい。心からそう思う。
「そーいや。青ちゃんとは仲良くやってんの」
赤松がニヤと笑いながら訊ねた。年末は赤松も仕事が忙しかったらしく、あまり店に顔を出すこともなかった為、日南子と付き合うことになったと報告したのは、義理で年明けの挨拶の電話をした時だった。
「──まぁ、それなりに」
なんとも落ちつかない。男同士でこういった話をするのはなんだかむず痒い。
「ははっ。なぁにが、それなりに……だよ。カッコつけやがって」
「──るせーな」
「おまえ、そういうこと言っていいの? 誰が自覚させてやったと思ってんだよ」
「……チッ、」
「あんだよ、その舌打ちはぁー」
赤松が不満げにこちらを睨んだ。
「……感謝は、してる」
いつまでも過去に縛られ、そこから動き出せなかった自分の背中を押してくれたのは間違いなくコイツだ。
日南子への気持ちを自覚したのも、この男がわざと俺を煽るような事を仕掛けて来たからだ。そんな分かりやすい挑発にまんまと乗っかってしまった自分を情けないと思いつつ、いつの間にか芽生えていた独占欲を強烈に自覚させられたことは結果、動き出す勇気を貰ったことになる。
「可愛くて仕方ないだろ、青ちゃんの事」
「──は?」
「あんな真っ直ぐでスレてない子、なかなかいねぇだろ? ──つか、なんで黒川だったんだろうな。歳離れてんのオッケーなら、どっちかってぇと俺の方が好物件じゃね?!」
「……どの辺がだよ」
「おまえよか顔はイイし。そこそこお洒落には気ぃ使ってるし? なんつったって女の子の扱いには慣れてる。ソッチのテクだって絶対俺のが──、青ちゃんみたいな子自分好みに……」
仮にも人の彼女を掴まえて、随分と調子に乗った妄想を繰り広げている赤松に、巽はテーブルの上にあったおしぼりを勢いよく投げつけてやった。
「痛てぇ!」
「下品なこと言ってっからだ。どアホ」
「うわ。……なに、その不機嫌。人の女でアレコレ想像すんなって?」
「当たり前だろ!」
不機嫌になるのも当然だ。付き合っている自分でさえ、いまだ彼女に踏み込んでもいないのに、親友に先に邪な想像をされて堪るかっつう話だ。
「まー。冗談はさておき」
そう言ってニヤ、と笑った赤松を巽は小さく睨み返す。ただからかわれただけだということは分かっているが、このままでは日南子の話題が出るたびに面白がって弄られそうで気が重くなる。
「──大事にしてやれよ?」
赤松が珍しく真面目な顔をして言った。
「……分かってるよ」
日南子の気持ちに応えたいと決めたとき、ありとあらゆる覚悟を決めたつもりだ。
もう誰も愛さない──、そう決めたところで、人の心は常に動いて行くと知った。凝り固まった巽の心を真正面からぶつかって揺り動かしたのは日南子の強い想いだ。
その想いに触れたら、信じてみたくなった。また人を愛せること。
長い人生の中、当然抗えないこともある。けれど、彼女の強い想いを支えにまだ先へと歩いて行ける気がした。
なによりも、自分自身が、彼女と共に歩きたいと思った。時には支えになり、盾になり、守りたいと──。
「青ちゃんって、見た目あんなふわっとしてんのに、いざとなったら強いよな。どこまでも真っ直ぐで、揺らがねぇの。亜紀の事話した時、泣いてたよ。おまえを想って……」
「え」
「普通好きなヤツが重たい過去背負ってたら一瞬ひるむだろ? けど青ちゃんすぐ言ったんだぜ? おまえの“傍にいたい”、“巽さんじゃなきゃ”って……俺思ったんだよね。この子ならおまえの心溶かしてやれんじゃねぇかな、って」
「……」
「おまえ、見掛けによらず弱いとこあるからな……彼女くらい気持ち強い子のほうが合ってんじゃねぇかなって。結果、思惑通りっつうな?!」
カハハ、と白い歯を見せて赤松が笑った。
「──いろいろサンキュ、な?」
もう、誰も失いたくない。今度こそ守りたい。一番大切な人を。
「うぇ、キモっ!」
「キモいとか言うな。人がマジで礼言ってんのに」
「ケッ! 似合わねぇんだよ、そういうのは。つか、おまえばっか幸せんなりやがってー。どっかに青ちゃんみたいな子落ちてねぇかな」
「……落ちてるか、アホ」
「ははっ、さすがにねぇか!」
お互い顔を見合わせて笑いあう。
思えばこいつには支えられてばかり。いつか返せるといい。貰った優しさに見合うだけの、コイツの幸せの手助けを。
♪ ♪ ♪ ~~、と突然鳴り出したどこかで聞いたような流行りの曲の着信音に、赤松がスーツのポケットからスマホを取り出した。
「はい。もしもし。──あ、もう店着いてるわ。……は? 飯?! わかったよ、食わしてやる。ああ、んじゃな」
おざなりな口調からして赤松の電話の相手は、女ではないらしい。どうやらここで待ち合わせか何かのようだ。
「誰?」
「あー。灰原」
「は?! ……おまえら、よく会ってんの?」
「ああ。なんつーか、成り行きでたまに飯行ったり」
何度か酔いつぶれた赤松を灰原が家に送り届けるなど、接点はあったが、いつの間にそこまで距離を縮めていたのか。赤松も、酔うとたまにタチの悪いところはあれど、基本面倒見が良く後輩にも慕われていた。赤松のそういう気さくな人柄がなせる技とでもいうのだろうか。
「送ってもらったりしてただろ? 最近じゃしょっちゅう飯たかられてなー?」
そうこうしているうちにカラカラ……と格子戸が開き、灰原が顔を覗かせた。
「おう。迎え御苦労!」
赤松がヒョイと片手を上げて挨拶をすると、灰原がそれを冷たい目で見やる。
「何言ってんすか。飯奢ってくれるっつーから来てやっただけです」
こんなやりとりからも、二人が思いのほか親密になっている様子が窺えた。灰原は、若いわりに物怖じするところがなく、言いたいことをはっきり言う辺り、同じ男としても好感が持てる。なんだかんだと、赤松が楽しくやってるのならそれでいい。
「灰原くん。隣でいい? 迎えっつーことは車か?」
巽が訊ねると、灰原が珍しく顔をしかめた。
「そうなんです。今日車なんすよ……」
「じゃあ。仕方ないか」
「普通にウーロン茶とか貰えますか」
頷きながらおしぼりを差しだすと、灰原がそれを笑顔で受け取った。こうして笑った顔などはまさに爽やかで、さぞやモテそうな雰囲気なのだが、そういえば彼のそういった話を聞いたことはない。
「かわいそうにな、灰原くん。こんなのに付き合わされて」
カウンターに座った灰原に声を掛けると、赤松が巽を睨む。
「違うからな、黒川。こっちが懐いてきてんの!」
「は? 誰が懐いてるですって?」
「え。お前」
「何かっつーと呼び付けてくんの赤松さんでしょうが」
どっちの言い分が正しいのかはさておき、仲がイイと言う事だけはそのやり取りを見て感じとれた。
*
午後九時を過ぎて、二組ほどいたテーブル席の客はすでに帰った後。あれから客はなく、カウンター席にはすでに食事を終えた赤松と灰原が居据わっているのみ。
平日の夜。これ以上の客入りは見込めないと判断して、つい今しがた店を閉めたところだ。
「そーいや。今日、青野さんは?」
灰原が思い出したように巽に訊ねた。
「職場の女の子たちと飲んで来るんだと」
「あ。じゃあ、あれだ。たぶん、相手白川さんあたりですね」
灰原は日南子と同じ職場だ。以前は同じ店に勤務していたらしいが、別々の店になってからは時折灰原が日南子のいる店に顔を出した時か、ここで顔を合わせる程度だという。
サラリと日南子の事を巽に訊ねた灰原だったが、日南子との事を知っているのかどうかは謎。あえて自分から言う必要もないと黙っているが、あまり触れられたくない話題。さっき赤松にからかわれた上に、その話を蒸し返されるのはなんとも居心地が悪い。
「帰り。迎え、行くんすか?」
「え、」
「だったら俺たち、引き上げますけど」
「……」
「や。黒川さん、付き合ってんすよね? 青野さんと」
やはり、バレてたほうか。情報漏えい先は訊かずもがな。
「ああ。知ってたのか」
「まぁ。この人から聞いたんすけど」
「だろうな」
灰原が赤松を軽く指さしたのを見なくても頷けた。
「青野さん、あれでけっこうモテんすよ? 癒し系とか、って取引先で彼女の事聞かれた事もあるし」
「……」
自分では全くモテないなどと言っていたが、ただの無自覚か。
そりゃ、あんな子が誰の目にも留まらない筈はない。派手さとは無縁だが、顔も控えめな可愛いさがあるし、あのおっとりとした雰囲気は男が嫌いなものではない。
「俺も、社内じゃ青野さんが一番好みでしたね」
なんの気なしに行ったであろう灰原の言葉に手にしたグラスを滑らせそうになった。そういえば灰原と日南子はわりと仲が良い感じだった。
今になってぞっとする。こんな爽やかイケメンがもし日南子に本気になったら、巽など到底太刀打ちできそうにない。
「灰原くんは、彼女とかは?」
もし今後、何かの拍子にライバルになりうる男は消去法にしておきたいと早速探りを入れる辺り情けない。
「や。いないっすよ? ……好きな人はいるんすけどね。これがどうにもつれなくて」
ハハッ、と笑う顔もまた爽やか。こんなイケメンでも落とせない相手がいるとは……と、相手が日南子でない事にほっと胸を撫で下ろす。
「灰原くんなら、上手く行くよ。な、赤松?」
少し酔いがまわって来たのか急に大人しくなった赤松の肩をポンと叩くとやつが「ん?ああ」と曖昧な返事を返した。
日南子と向き合うと決めて。好きだと言ってその手を取って。
それでもまだ不安は残る。あんなにも真っ直ぐな目で自分を想ってくれているのを知っているのに、どこかで思う。本当に自分でいいのか、と。
けれど、どんなに情けなくても誰にも負けられない。彼女が自分でなければと、言ってくれてるように。巽にとっても彼女でなければならない想いがあるのだから。