love*colors

「ほら、寒みぃから早く入んな」

 そう言って日南子の軽く背中を押すと、彼女がまだ何か言いたそうな顔をしていることに気づいて小首を傾げた。

「どした?」
「巽さん、さっきの──、」
「あ?」
「さっき──、巽さん名前……」

 照れくさそうに言葉を言い淀んだ日南子に、彼女が何を言いたいのかをなんとなく察知する。

「ああ。“日南子”ってやつか?」

 そう訊ねた瞬間、日南子の顔がボボボと分かりやすいくらい赤くなる。

「そう。それ……」
「より“恋人”っぽく呼んでみただけだけど」
「……もっかい呼んでって言ったら?」

 日南子が巽の様子を窺いながら訊ねた。

「はぁ?!」
「……だって。嬉しかったんだもん」

 あんなどさくさまぎれの一瞬の事をちゃんと覚えているとは。あの時、名前を言い直したのは、巽自身もそうしてみたいと思っていたからに他ならないが、改めてリクエストされるとは思わず苦笑いを返す。

「無理無理。そんなあらたまって言われるとさー」

 呼べないわけではないが、やはり気恥ずかしいものがある。

「えー! 恥ずかしいの我慢して言ったのに」
「や。こっちだって相当恥ずかしいからな」
「意地悪」
「あのなぁ……! つか、もう店開けねぇとだし」
「──あ、」

 名前くらいサラっと呼んでやれよと自分でも思うのだが、昔なら気安くできたことができなくなるのは歳を重ねたせいか、相手が日南子だからなのか。
 
「それじゃ、また」
「ああ」

 さっきからもう何度目かになる別れの言葉。
 彼女のさっきまでの嬉しそうな顔が急にしょんぼりした後ろ姿に変わったことにわずかばかりの罪悪感。たかが、名前。されど名前。その呼び方が変わるだけで気持ちが浮かれたり沈んだりする気持ちは分からなくはない。

「日南子」

 小さく呼びかけると彼女が振り向いた。正直に言おう。呼ぶほうだって嬉しくないわけじゃない。

「ふふ。やっぱ嬉しいな、それ」

 照れくさそうにはにかむ日南子に、結局はこちらも同じくらいのはにかみ顔を返すことになるのだった。


   *  *  *


「お天気で良かったー!」

 車窓を流れる景色を眺めながら、日南子が嬉しそうに言った。
 真冬だというのに海岸沿いの道をほんの少し窓を開けて走ると、車の中に潮の香りが充満した。二月下旬の晴れの日曜。ここ数日寒さは和らいでいるが、車の中とは言え窓を開ければそれなりに寒い。

「海の匂いがする」

 日南子は風になびく髪を時折手で抑える程度で、特に気にも留めずに窓の外の景色に見入っている。家から車で三時間程度のとある地。巽の所持する車と言えば店の配達用の軽バン。さすがにレンタカーにでもしようと思ったのだが、それを日南子に「車わざわざ借りるなんてもったいない」拒否された。
 車のサイドに思いきり店の名前が入っている車でも問題ないといってくれるあたりがなんとも彼女らしいのだが。初めてのまともな泊まりデートくらい気合いを入れてやりたかったのだが「その分のお金で美味しいものたくさん食べよう?」と押し切られる形となった。
 結局のところ、行き先を決めたのもほぼ彼女だったし、コースをきめたのも然り。巽がしたことといえば、宿泊先を予約した程度だ。
 それも彼女がただ店に通っていたころには分からなかった顔。ほわっとした見た目の雰囲気のわりに意外にもしっかり者で、自己主張もしっかりする。
 知らなかった一面が見れることが、巽にとってもまた嬉しくもある。

「寒くねぇの?」
「うん。もう少ししたら窓閉めるね」

 小さく口を結んだ横顔がなんだか眩しく見える。

「最初、水族館だっけ?」
「うん。その前にお昼食べたいなー。チェックしといたお店があるの」
「ははっ。しっかりしてんな」

 キラキラと目を輝かせる日南子の表情がいつも以上に楽しげであることが、巽の胸までもを弾ませる。

「だって。目一杯楽しみたいもん」

 それほどまでに今日の日を楽しみにしてくれたいたことが、巽自身も嬉しかった。
 
   *

 昼食を済ませて日南子のお目当ての水族館に向かった。
 近年人気の水族館で、日曜と言う事もあり家族連れなどで混み合っている。

「クラゲの水槽見てみたかったの」
「ああ。俺、テレビでしか見たことねぇや」

 そもそもこうしたデートらしき事が巽にとっては何年かぶりなのだ。亜紀と付き合っていた頃も、年に一度くらいの旅行はしたが、お互い仕事が忙しく時々会って飯を食うだけというのがほとんどだった。
 ふと周りを見ると、自分と同じ年頃の男には当然妻がいて子供がいて──、ひとまわりも歳の離れた女の子とデートをしている者などいないに等しい。
 そんな事実に気後れしつつも、純粋に自分とのデートを楽しんでいる日南子を見るとほっとする。

「巽さん、あっち」
「ああ」

 日南子がチョイチョイ、と巽の服の裾を引っ張ったので、巽はその手を取って歩き出した。
 こうして手を繋いで歩くことにも次第に慣れつつある。最初は変な緊張が走ったものだが、いつのまにか日南子の手のひらの形が自分の手のひらに馴染んでいるのを感じる。

 薄暗い通路を歩いて行くと、ひときわ人が多い水槽があった。

「あ。あれかも」

 近づいて行くと、まんまるな球形の水槽の中をミズクラゲがふわふわと漂っている。
 専用ホールとなっているのか、半ドーム式の空間の壁面に、大小いくつもの水槽が配置され、その中央に球形の水槽があり、そこはまるでひとつの惑星のようだった。

「うわ……綺麗」
「ああ。すごいな、これ」

 思わず見惚れてしまうほどのファンタジックな世界。まわりにいる客のほとんどが感嘆の声をあげた。

「まるで宇宙の中にいる見たい」

 日南子がキュッと手を握り、巽もその手を握り返した。
 触れていると伝わる。彼女の感動も、息を飲むその瞬間の息遣いも。同じものを見、感じることの幸せ。彼女といると、忘れていた感情や感覚を呼び覚まされる。

 幻想的な世界に浮かされたのか、目の前にいたカップルが突然キスをした。
 日南子は水槽に夢中で気づいてはいないが、そんなカップルたちの盛り上がる気持ちもなんとなく分からなくはない。
 
 もし、今この場に日南子と二人きりだったとして。
 そんな状況ならば自分も同じことをしてしまったかもしれない。
 目を逸らしていたつもりが、そうできていなかったのだろうか。盛り上がっていた目の前のカップルに睨まれた。

「……」

 見られるのが嫌ならそんなトコでイチャつくな、と言ってやりたいのをなんとか堪えた。
 ふと隣を見ると、日南子がまだ水槽を眺め目をキラキラとさせている。真っ直ぐに水槽を見つめるその目は真剣そのもの。こんな凛々しい顔もするんだな、と思うと同時に、薄く開かれた唇が気になって仕方ないとか、まるで男子中学生のような自身の邪《よこしま》な思考に辟易する。

「次、行く? あっちでイワシの群れ見れるらしいぞ」
「あ。見たい! なんだっけ、イワシトルネードとかいうのでしょう?」
「ああ」
「巽さん、見たことあるの?」
「ああ。まえに一度な」
「なんだ。初めてじゃないんだ……」
「──あ?」
「巽さんも初めてだったらいいなーって思ったの。二人一緒の初めてが増えるでしょう?」
「……」

 その言葉を聞いて、ほんの数分前の邪な感情を持った自分を殴ってやりたいと思った。

「日南子。こっちのがよく見えそうだ」
「──ありがとう」

 嬉しそうに笑った日南子の可愛さが、堪らない。
 たかが名前を呼ぶだけで、こんなにも頬を染め嬉しそうな顔をする。名前を呼ぶのは二人きりの時に限られているが、相変わらずの新鮮な反応に、こっちが先にやられてしまいそうだ。


 水族館を出て、その先にある展望灯台へと向かう。その展望台もこの辺りを観光するにあたってはずせない観光スポットのひとつらしい。
 橋を渡り、その先にある神社までを繋ぐ仲見世を覗きつつゆっくりと歩いて行く。商店街はゆるやかな坂道になっており、旅館や土産屋などが立ち並び賑やかな雰囲気だ。

「あ。あれ美味しそう!」

 日南子が立ち並ぶ店を眺めながらはしゃいだ声を出す。

「さっき飯食って腹いっぱいとか言ってたやつ誰だよ?」
「いいの! ああいうのは別腹だもん」

 その先にある神社で参拝を済ませ、さらに先にある植物園を抜けると展望台に辿り着く。
 エレベーターで展望台へ昇ると、少し低くなった太陽が海をキラキラと照らしている美しい景色に目を奪われた。

「すごい! 遠くまで見渡せる」
「天気よくて良かったな」
「うん。私、けっこう晴れ女なんですよ? “ここ”って時はだいたい晴れるんです!」

 日南子にとって今日が“ここ”という時なのだろうか。なんだか自慢げに言う彼女の表情に思わず笑いが込み上げる。
 何事もわりとプラスに捉えるほうなのだろう。付き合うようになってから彼女のネガティブな発言をあまり聞いたことがない。
 以前はどうだっただろうか。自分にあまり自信のないタイプかと思っていたが、それも違ったらしい。
 知らなかった顔が見えてくるたびに、新鮮な気持ちを味わう。もっと知りたい、もっといろんな顔を見たいと、ますます欲張りな気持ちが芽生えてくる。

「夜、ライトアップされんだってよ。ココ」

 ふと見つけた案内を指さしながら言うと、日南子が小首を傾げた。

「え? そうなんですか?」
「季節によって色が変わるって──、」
「へぇ……夜も素敵なんだろうなー」

 案内板を見上げて、その景色を想像しているようだ。

「巽さん。写真撮りたい」
「ああ」

 日南子が展望台からの景色を写真におさめられるように場所を空けてやると、彼女が繋いだ手をブンと振った。

「違うの。そうじゃなくて」
「あ?」
「巽さんと撮りたいって意味なのに」
「ああ……」

 日南子がそっと繋いだ手を離し、バックから取り出したスマホでカメラを起動する。彼女が慣れた手つきでインカメラにし、そのまま腕を伸ばしてそのフレーム内に自分たちを収める。

「あー、うまくはいんない。巽さんもっとくっついていい?」

 そう訊ねた日南子が俺の許可を待たずし顔を寄せて来るのにドキッとする。こういうところはイマドキの若者といった感じがする。写真など撮り慣れていて、抵抗は微塵も感じられない。 
 こういった事に慣れない巽などは、たかがこれだけの事でドギマギしてしまう。



 

 
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