love*colors
「巽さんは──、忘れられない恋したことありますか?」
訊ねたのは興味本位。恋愛ごとなどさほど興味もなさそうで、そのうえ妙に余裕のある巽に対してこんな少し意地悪な質問をしたらどんな反応をするだろうか、という程度の。だから次の巽の答えは日南子にとって意外、などというものではなかった。
「──あるよ」
そう静かに答えた瞬間の巽の表情に日南子は思わず釘付けになった。
今まで見たこともない顔だった。言葉で語られなくても分かる。いま巽の頭に浮かんでいるその人こそが、彼の心を捉えて離さない人なのだろうということが。
優しく穏やかで、どこか懐かしそうな顔。愛しい人を想うとき、彼はこんな顔をするのだ。
「──って。俺の話はいーんだよ」
ふと我に返ったように巽が照れくさそうに顔を歪めた。
「……あるんだ」
そっか。そうだよね。
日南子よりもずっと大人で、人生経験だって豊富であろう巽にそういった経験がないなんて思った自分が浅はかだと思った。今までろくに好きな相手もできたことのない日南子と違って、巽くらいの歳になればそういう恋を一度や二度経験していて当然の事だ。
「もう昔の話。これ以上の突っ込みはナシな?」
「……はい」
「おかわりいる?」
「明日仕事なんで、これ飲んだら帰ります」
「急いで帰ることないけど、遅くなんないうちに帰んな」
「はい」
やっぱり、お父さんみたいだ。
“くろかわ”を出て、日南子は歩いて五分ほどの自宅マンションまでの道をゆっくりと歩く。
サワサワと吹く風が髪を揺らすのが心地いい。──なのに、さっきから胸の奥がツキツキと痛むのはカフェオレを飲み過ぎたせいだろうか。
「……いいな」
みんな恋してる。恋してた。あの巽さんでさえ。
憧れや淡い好意とは違う。誰かを本気で好きになるって、一体どんな気持ちなんだろう。
* * *
「……まぁた、雨か」
店の自動ドアに音を立ててぶつかる雨粒を眺めながら、レジカウンターの中で注文書を記入している雪美がその手を止めて呟いた。
「よく降りますねー、最近」
天気がぐずつく日が増えていると思っていたが、ついに数日前に全国的な梅雨入りが発表された。雨脚の強い日は若干客足も減る。外は今激しい雨。ちょうど開店したばかりの元々客の少ない時間帯。店内にはいま日南子たち店のスタッフのみだ。
「そーいえばさ、青野」
「何ですか?」
「まえ、パーティーで会った山吹くんって覚えてる?」
「あ……はい」
覚えている。先日のパーティーで、唯一日南子がまともな会話をした男性だ。
「昨日、ここ来てたよ。近くに用があったついでに寄ってくれたらしいんだけど」
「へぇー、そうなんですか」
「青野のこと訊かれた。もしよければ連絡先教えてもらえないかーって」
雪美の言葉に日南子は一瞬仕事の手を止めた。
「──はいっ?!」
「や。気が進まないなら別に無理にとは言わないよ? 青野が嫌なら適当な事言って断わるし」
「……嫌、ってわけじゃないんですけど。なんで今更なんですかね?」
事実、あのパーティーからすでに二週間以上は経っている。正直話題に上らなければすっかり忘れていたくらいだ。別に印象に残っていないというわけではない。ああいう場において何らかの感触がなければ、のちに引きずらないようにしているというだけの事。
あの時、日南子が彼の番号を記入して提出するという精一杯の好意を示したものの、カップル成立しなかったということは、彼が日南子に興味を示していない何よりの証拠だと思っていた。
「彼ね。あの時、誰の番号も書かなかったんだって。ああいうの初めてで、しかも先輩の田上さんに付き合わされての参加だったでしょう?その手前、なんて言うか先輩を気遣っちゃったとこあったらしくて……ね?」
「……そうなんですか」
「──で、どうする?」
「どうする、って、……どうしましょう?!」
そう訊き返すと雪美がプッと吹き出した。
「どうしたもこうしたも。青野のしたいようにすればいいのよ。また会ってみたいって思うんだったら私から連絡先教える。もう勘弁、ってならこの話はなかったことに、ってだけの話じゃん」
「私、初めてなんです、こういうの!」
出会いを期待してああいう集まりに参加してみたものの、未だそれが“次”へ繋がったことなど一度もなかった。せっかくの“次”へのチャンス。曲がりなりにもわずかに好意を抱いていた相手だ。断る理由は何もない。
「あのっ、……繋げてみたいです。次があるなら」
そう答えると、雪美が一瞬驚いた顔をして、それから嬉しそうにニッと笑った。
「おー、青野にしちゃいい返事。んじゃ、連絡先教えとくわ。はい!」
雪美が制服の胸ポケットから一枚の名刺を取り出して指に挟み、日南子の目の前でヒラヒラと振った。
「連絡先預かってんの。少しでもやる気あるなら自分から連絡してみな。裏に携帯番号とアドレス貰ってるから」
雪美がニッコリと笑った。
「……えっ、私からするんですか?」
「当ったり前でしょー。これを生かすも殺すも青野次第って事! 自分からする気ないんなら止めたら? どーせその程度、って事なんだろうし」
雪美が少し意地悪な表情で日南子を見て、手にした彼の名刺を自分のポケットに戻す仕草をする。
「さ。どうすんのーぉ?」
「します! しますからっ!!」
「いい心がけ。──はい」
再び差し出された名刺を今度は雪美の手からしっかりと受け取った。
「膳は急げっていうから、昼休みに早速メールね! アタシ、横で見張ってるから」
「ええーっ?!」
早速のスパルタ指導。
「何か文句でも?」
「……いや、ないです」
「ふふん。あ、アタシちょっと倉庫入るからヨロシクー」
なぜかもの凄く楽しいことを見つけたような満面の笑みを見せて雪美が店舗奥の倉庫へと消えて行った。あの顔、きっと面白がっているに違いない。
「ま。いっか……」
雪美に背中を押してもらうくらいのほうが日南子には調度いい。なにしろこういうことは久しぶりだ。日南子一人では、他愛もない事をウジウジと考えて結局行動を起こせるかどうかも分かったものではない。
まずは、初めの一歩。この出会いが恋に繋がるかどうかは、試してみなければ分からない。
「よし!」
心の中で気合いを入れて、ガラス張りの店内から外を眺めた。さっきまでの雨脚が随分と弱まり、薄雲の隙間から日が差し込んでいるのを見て日南子は無意識に微笑んだ。
訊ねたのは興味本位。恋愛ごとなどさほど興味もなさそうで、そのうえ妙に余裕のある巽に対してこんな少し意地悪な質問をしたらどんな反応をするだろうか、という程度の。だから次の巽の答えは日南子にとって意外、などというものではなかった。
「──あるよ」
そう静かに答えた瞬間の巽の表情に日南子は思わず釘付けになった。
今まで見たこともない顔だった。言葉で語られなくても分かる。いま巽の頭に浮かんでいるその人こそが、彼の心を捉えて離さない人なのだろうということが。
優しく穏やかで、どこか懐かしそうな顔。愛しい人を想うとき、彼はこんな顔をするのだ。
「──って。俺の話はいーんだよ」
ふと我に返ったように巽が照れくさそうに顔を歪めた。
「……あるんだ」
そっか。そうだよね。
日南子よりもずっと大人で、人生経験だって豊富であろう巽にそういった経験がないなんて思った自分が浅はかだと思った。今までろくに好きな相手もできたことのない日南子と違って、巽くらいの歳になればそういう恋を一度や二度経験していて当然の事だ。
「もう昔の話。これ以上の突っ込みはナシな?」
「……はい」
「おかわりいる?」
「明日仕事なんで、これ飲んだら帰ります」
「急いで帰ることないけど、遅くなんないうちに帰んな」
「はい」
やっぱり、お父さんみたいだ。
“くろかわ”を出て、日南子は歩いて五分ほどの自宅マンションまでの道をゆっくりと歩く。
サワサワと吹く風が髪を揺らすのが心地いい。──なのに、さっきから胸の奥がツキツキと痛むのはカフェオレを飲み過ぎたせいだろうか。
「……いいな」
みんな恋してる。恋してた。あの巽さんでさえ。
憧れや淡い好意とは違う。誰かを本気で好きになるって、一体どんな気持ちなんだろう。
* * *
「……まぁた、雨か」
店の自動ドアに音を立ててぶつかる雨粒を眺めながら、レジカウンターの中で注文書を記入している雪美がその手を止めて呟いた。
「よく降りますねー、最近」
天気がぐずつく日が増えていると思っていたが、ついに数日前に全国的な梅雨入りが発表された。雨脚の強い日は若干客足も減る。外は今激しい雨。ちょうど開店したばかりの元々客の少ない時間帯。店内にはいま日南子たち店のスタッフのみだ。
「そーいえばさ、青野」
「何ですか?」
「まえ、パーティーで会った山吹くんって覚えてる?」
「あ……はい」
覚えている。先日のパーティーで、唯一日南子がまともな会話をした男性だ。
「昨日、ここ来てたよ。近くに用があったついでに寄ってくれたらしいんだけど」
「へぇー、そうなんですか」
「青野のこと訊かれた。もしよければ連絡先教えてもらえないかーって」
雪美の言葉に日南子は一瞬仕事の手を止めた。
「──はいっ?!」
「や。気が進まないなら別に無理にとは言わないよ? 青野が嫌なら適当な事言って断わるし」
「……嫌、ってわけじゃないんですけど。なんで今更なんですかね?」
事実、あのパーティーからすでに二週間以上は経っている。正直話題に上らなければすっかり忘れていたくらいだ。別に印象に残っていないというわけではない。ああいう場において何らかの感触がなければ、のちに引きずらないようにしているというだけの事。
あの時、日南子が彼の番号を記入して提出するという精一杯の好意を示したものの、カップル成立しなかったということは、彼が日南子に興味を示していない何よりの証拠だと思っていた。
「彼ね。あの時、誰の番号も書かなかったんだって。ああいうの初めてで、しかも先輩の田上さんに付き合わされての参加だったでしょう?その手前、なんて言うか先輩を気遣っちゃったとこあったらしくて……ね?」
「……そうなんですか」
「──で、どうする?」
「どうする、って、……どうしましょう?!」
そう訊き返すと雪美がプッと吹き出した。
「どうしたもこうしたも。青野のしたいようにすればいいのよ。また会ってみたいって思うんだったら私から連絡先教える。もう勘弁、ってならこの話はなかったことに、ってだけの話じゃん」
「私、初めてなんです、こういうの!」
出会いを期待してああいう集まりに参加してみたものの、未だそれが“次”へ繋がったことなど一度もなかった。せっかくの“次”へのチャンス。曲がりなりにもわずかに好意を抱いていた相手だ。断る理由は何もない。
「あのっ、……繋げてみたいです。次があるなら」
そう答えると、雪美が一瞬驚いた顔をして、それから嬉しそうにニッと笑った。
「おー、青野にしちゃいい返事。んじゃ、連絡先教えとくわ。はい!」
雪美が制服の胸ポケットから一枚の名刺を取り出して指に挟み、日南子の目の前でヒラヒラと振った。
「連絡先預かってんの。少しでもやる気あるなら自分から連絡してみな。裏に携帯番号とアドレス貰ってるから」
雪美がニッコリと笑った。
「……えっ、私からするんですか?」
「当ったり前でしょー。これを生かすも殺すも青野次第って事! 自分からする気ないんなら止めたら? どーせその程度、って事なんだろうし」
雪美が少し意地悪な表情で日南子を見て、手にした彼の名刺を自分のポケットに戻す仕草をする。
「さ。どうすんのーぉ?」
「します! しますからっ!!」
「いい心がけ。──はい」
再び差し出された名刺を今度は雪美の手からしっかりと受け取った。
「膳は急げっていうから、昼休みに早速メールね! アタシ、横で見張ってるから」
「ええーっ?!」
早速のスパルタ指導。
「何か文句でも?」
「……いや、ないです」
「ふふん。あ、アタシちょっと倉庫入るからヨロシクー」
なぜかもの凄く楽しいことを見つけたような満面の笑みを見せて雪美が店舗奥の倉庫へと消えて行った。あの顔、きっと面白がっているに違いない。
「ま。いっか……」
雪美に背中を押してもらうくらいのほうが日南子には調度いい。なにしろこういうことは久しぶりだ。日南子一人では、他愛もない事をウジウジと考えて結局行動を起こせるかどうかも分かったものではない。
まずは、初めの一歩。この出会いが恋に繋がるかどうかは、試してみなければ分からない。
「よし!」
心の中で気合いを入れて、ガラス張りの店内から外を眺めた。さっきまでの雨脚が随分と弱まり、薄雲の隙間から日が差し込んでいるのを見て日南子は無意識に微笑んだ。