love*colors
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バスを降りる頃には、朝から一日降り続いていた雨は小雨になっていた。
バス停の目の前の“くろかわ”はまだ明りが点いている。ジャケットの袖口を少しだけめくり時計を見る。
時刻は午後九時五十分。金曜の夜。そろそろバー営業が始まるころだ。
「今日は……やめとこ」
そう呟いて日南子が歩き出したのと同時に、カラカラ……と店の入り口の格子戸が開いた。条件反射的に振り返ると、店先から出て来た人影が日南子に気がついて声を発した。
「おかえり。遅いじゃん、今日」
声の主は言わずもがな店主の巽。その姿はちょうど光の加減でほの暗いシルエットでしかないが、聞き慣れたその声が誰であるかなど、常連客の日南子に分からないはずもない。
「ちょっと友達とご飯食べに行ってて……」
当たり障りのない返事をした。なにもわざわざデートだったなどと巽に言う必要もない。
「おー、そっか」
巽がそう返事をしながら店の外の暖簾に手を掛けた。
「あれ? ……もう、店じまいですか?」
「ああ。明日朝早くから法事あんだよ。今日はバー営業休み」
「そうなんですか……」
「あ。ちょい待ってな」
そう言うと、巽が店の中へ身体半分入ったかと思うと、おそらくバイトの男の子に何か声掛けをしてから傘を片手に日南子に近寄って来た。
「途中まで一緒しねえ? 青ちゃん確かこの先のマンションだろ?」
「え?」
「俺は、煙草切れたからその先のコンビニまで」
巽が傘を片手に煙草を吸うような仕草をしながらニッと笑った。
巽とは週に何度か店で顔を合わせているが、こうして店の外で会うのは初めてだ。ましてや、こんなふうに肩を並べて歩くことも。
雨は随分と小降りになったが、時折ビシャと水溜りが跳ねる。日南子の隣を歩いていた巽がさりげなく車道側にその立ち位置をスイッチした。そういう小さな気遣いが巽らしいと思う。
肩を並べて歩いているうちに気づいたこと。普段カウンター越しの距離、同じ場所に立つということもないため気付かなかったが、思ったより巽の背が高い。
「なんか、不思議。巽さんと並んで歩くなんて。ずっとお店にいるイメージだから」
「ははっ、何だよそれ。俺だって出歩くよ、普通に」
そりゃそうだ。巽だって普通にあの店で生活しているのだ。この辺りは比較的栄えた大通り。近所にはドラッグストアや大型スーパーもある。想像するに彼と日南子は生活圏が同じなのだ。
「ていうか、こんな近所に住んでて偶然でも会わなかったのが不思議なくらいですよね?」
「ほんとになー。特にそこのスーパーなんて出現率半端ねーけどな、俺」
「本当ですか? 私もけっこうな頻度で行ってますよー?」
「マジか。でも、アレか。行く時間帯が違うんだろな」
「今度巽さん見掛けたら声掛けちゃおーう」
「悪い。俺、知らんふりする」
「えー、酷い!」
むくれた顔をすると、巽が不意に日南子の腕を掴んで引き寄せた。引っ張られた勢いでトンと鼻の頭が巽の胸にぶつかった。
掴まれた腕、パーソナルスペースに完全に踏み込んだ距離で近づく身体。フワと鼻を掠める巽の匂い。
その瞬間、キコキコ……と、自転車に乗った人影が日南子の横をすり抜けて行った。巽のおかげで接触こそしなかったものの、何もしなければぶつかっていたかもしれない。
「……雨で視界悪りぃから危ねぇな」
そう呟いた巽の手がゆっくりと離れた。日南子は慌ててその身体を離す。
「……」
ほんの一瞬のことに心臓が跳ねた。もちろん巽の行動に深い意味などない。ただ通りかかった自転車に接触しそうになった日南子を危険から回避させてくれただけ。
なのにいつまでもドキドキとしておさまらない胸の鼓動の落ち着きのなさに思わず苦笑いが漏れる。
「巽さん。私、ここで──」
日南子はそれを誤魔化すかのように、通りから奥に入る細道を指さした。
通りを入って数メートルほどの煉瓦色の五階建てのマンションが日南子の自宅。
「ああ、この辺?」
「そこの煉瓦色の──、」
「そっか。いいな、コンビニ激近じゃん」
巽が向かうコンビニは大通りをもうほんの少し歩いたところだ。
「巽さんのお店からもたいして離れてないじゃないですか」
「まぁ、そーだけど」
「それじゃ。……おやすみなさい」
そう言って日南子は巽に小さく頭を下げた。
「おう。また店寄ってなー」
「はい」
細道の角の所で巽と別れた。大きな傘をさした巽の後ろ姿をぼんやりと見送った。
「……帰ろ」
くるりと身体の向きを変えて歩き出す。なぜか落ち着きを取り戻せない鼓動の早さに戸惑った。
夜で良かった。
雨が降っていて良かった。
傘をさしていて良かった。
左手で傘を支えながら、右手の甲で頬に触れた。ポツポツと傘に小さな雨粒が当たる。
「なにこれ……」
顔が熱い。本当嫌になる。たかが一瞬腕を掴まれたくらいで。
思ったより大きな手だった。力強い男の人の手だった。
「もー、どんだけ免疫ないのよ……」
マンションのエントランスを抜け、エレベーターに乗り込むと日南子は扉が閉まるのと同時に小さく息を吐いた。