たった一つの勘違いなら。
『噂になるのは困る』
『本命の彼女がいるということにしたい』
あの人は確かそう言ったはずだ。はっきりしたことは1つも言わなかった。
キッチンに出しっぱなしだったグラスをシンクに落とすと、パーンと硬質な音を立てて割れた。
『カズくんと呼ぶな』と言った。それがどういう意味かは聞かせずに、キスで私を黙らせた。
もうひとつ掴んで、今度は狭い玄関に向かって投げた。ガシャーンとタタキで砕け散る音がする。
非常階段で、違いますと離れた彼に、『彼女はわかってる』と言った。
なにを?
付き合ってることを、じゃない。
そうじゃないことを、だ。
周到に張り巡らされた嘘。
西山さんにも私にも、言葉を尽くさずとも都合のいいように思い込ませるための。
もうひとつ。パーン!と弾けた。
死にかけてるわけでもないのに、走馬灯みたいにいろんなことが頭を駆け巡っていく。
そもそも私と彼が1対1で話さないように、わざわざ法務部まで追いかけて来た。
担当は高橋くんに変わり、自分が私と話すときはわざと二課の外にしていた。
ガシャーン!と遠くでまた割れる。