たった一つの勘違いなら。

「ここからでも会社までは歩けるよね」

「はい」

「郵便物とかいろいろややこしいね」

「そうですね。転送届がいるんでしたっけ」

「次は俺がなんていうつもりかわかる?」

なんだろう、全然わかりません。

「たまに私の部屋にチェックに行ったら、ですか?」

「そうなるのか。まあプロポーズとしては色気がなさすぎるから、また今度にする」

え、今なんて? プロポーズ?

「富樫詩織になればいいよね、はい、って流れのはずだったんだけど」

富樫詩織。その響きに圧倒されて口が空いてしまう。



こんな玄関口で、出掛け際になんでいきなりそんな話に。もちろん余裕の態度の真吾さんは、私がうろたえているのを楽しんでいる。冗談?

「ごめん、そろそろ仕事行かないといけないから、詳しいことはまたあとで話そう」

「だって、お見合いとか、結婚とか」

「俺は詩織のものだって言った。周りの声は雑音だろ?」

「はい」

私の言ったことをいろいろ覚えていて、こうやって使われると何も言い返せない。


「いってきます」

「いってらっしゃい」

反射的に返すと真吾さんは珍しく言葉を失ったように私を見て、それからちょっと下向きに噛みしめるように笑った。

この感じは知ってる。私にも覚えがある。

仕事をすごく頑張って、ご褒美みたいな合図を真吾さんにもらえたとき。ガッツポーズするくらい嬉しかった、あの時の感じ。

この人本当に私のことが好きなんだって、今やっと思えた。もしかしたら私と同じくらいに。



真吾さん、私は時々見つけるあなたの素の笑顔がいちばん好きです。
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