たった一つの勘違いなら。
反論も質問も思いつかず、デートと言ってもこんな風にご飯くらいなら断る理由もないけれど。
「橋本さん、じゃさすがにおかしいよね。詩織って呼んでいいかな」
「でも」
「詩織」
まっすぐ目を見て自分の名前を呼ばれるだけで、全部の思考が止まった。しおり、という響きが突然特別なものになったみたいに。
「会社ではちゃんと使い分ける。そのくらいの分別はある。内緒にしようって言ったからね」
そのまま念押しをされて頷く。
「俺のことは、真吾くんって呼んでいいよ」
真吾、くん?
「無理です!」
「なんで? 一応彼氏だよ、『課長』はないでしょ」
「くん、はおかしいです。年上です」
「そう? 詩織っていくつだった?」
「28です」
「2歳しか変わらない。真吾くんで十分だと思うけど?」
「呼べません」
いくらなんでもそれは無理。課長と私じゃ年齢差以上の身分差がある。
「しかたないな、じゃあ真吾さんで我慢する。言ってみて」
それだって相当おかしいと思いながらも、迷いのない目に捕まって降参する。
「……真吾さん」
「いいね、もう一回練習」
テーブルに頬杖をついて、上目遣いで私を見ている。なにこの感じ。
「詩織?」
「真吾さん」
「なに?」
「恥ずかしいです」
言ったとたんに、盛大にふきだされた。いつもの柔らかな微笑じゃない。素で受けているような少し子供っぽい明るい笑い方で、課長は机に突っ伏しそうな勢いだった。
なにこれ、なにこれ。
この人のこんな笑顔が見られるなら、偽装の彼女だろうが架空の妹だろうがなにだってなる。
私がついそう思ったとしたって、文句の言える女性はきっとそんなにいない。