たった一つの勘違いなら。
そもそも私があの2人の関係にモヤモヤし始めた出来事は、数週間前にさかのぼる。
その日は、契約書類を統合ソリューション本部第五課の課長にお届けする用件があった。1階上にあたる法務部からならエレベーターを待つよりも階段のほうがずっと早い。
このビルのエレベーターは本当に遅いので、そもそも3階程度の移動の場合は基本的に階段を選んでいる。
鉄製のドアを開けて階段に出た後、いや、何かメモも持ってくればよかったかもと一旦足を止めたところで、下の階から声が聞こえてきた。
「カズくん」
このセクシーな響きは、年に1度ぐらいこの階段で遭遇してしまう社内逢引的なあれだ。
恋愛するのはご自由ですが、どこかほかでやって欲しいと毎回思う。吹き抜けになっている階段って皆さんが思っているよりも声が筒抜けですと張り紙をさせていただきたい。
あれ、でも男性の声で、カズ『くん』って?
「社内でその呼び方はやめてくださいって何度言ったら」
「社内じゃなかったらいいんだな?」
答えはなく、息をつく音が聞こえる。
「今夜8時。来るまで待ってるから」
カツカツと歩き去りドアが閉まる音。『カズくん』のものであろう深いため息。