たった一つの勘違いなら。
まずい、上がってくる!
とっさに目の前のドアをもう一度開けてから、大きく音を立てて閉めた。
駆け上がってくる『カズくん』と目が合って、「お疲れ様です」と言い合う。
知ってる、この人。よく階段を使っている人だ。たぶん、富樫課長の部下。部下の人もかっこいいって噂になっていたのを聞いたことがある。
名前は、確か。
「おい、西山!」
そう、西山さん。
下からするのは富樫課長の声だ。さっきとはまるでトーンが違う仕事用の声色。でも、そう、疑いなく同じ声だった。
「なんですか」
「ちょっと戻れ、言い忘れたことあった」
「了解です」
答えながら走り下りつつ、私の脇をすり抜けるときに「すみません」とあいさつをしていく。課長がお手本になっているのか、この人も女性にイケメン対応だ。
西山さんは風のように富樫課長のところにたどり着き、「ここ人いるんで、あっちで」と小さめの声で言っているのが聞こえた。
そう、この階段は下から上に音がよく響くから、あまり話し合うのには向いていない。
2人がドアを閉めて廊下のほうへ移っていく音を聞いた後も、しばらく書類のおとどけのことを忘れ、呆然と立ち尽くしてしまった。