たった一つの勘違いなら。


家に帰るなりラフな格好に着替えたこの人は、先日のエレベーターでのことなど話す気もないようだ。

単なる気まぐれだったんだろう、と私も気にせず料理を手伝って2人で食べた後、そろそろ帰りますねと告げた。

「詩織のああいう顔はレアでよかったよ」

気を抜いたところを狙って言われたことはわかった。ああいう顔ってどういう顔だか知らないけれど、きっと醜い嫉妬した顔。

「怒ってる?」

「あんなのファンサービスだよって言ったら、恵理花を怒らせました」

「そうか、ごめん。余計なことした」

ふわりと頭を撫でられて、違う、課長が思ってるようなことじゃないと言いたくなる。

これは、カズくんと同じ扱いをしてもらったことを喜ぶどこか後ろ暗い気持ち。

「カズくんにも、そうやって」

「詩織がカズくんって呼ぶ必要はない」

言いかけた言葉は、尖った声で飲み込まされた。

そうか、調子に乗った。『カズくん』はきっと課長と彼の間の特別な呼び名だ。

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