偽装結婚はおさない恋の復活⁉︎

「彼女の名前はなんていうの?」

左手首の時計を見て稍の脈拍数を確かめながら、医者は山口に尋ねる。

仕事用に使っているのは、グランドセイコーのスプリングドライブである。
シンプルで文字盤が見やすいし、国内ブランドだから患者の前でも厭味(いやみ)なくつけられる。
さらに、世界で初めて機械式とクォーツのそれぞれの良さを活かした「ハイブリッド」なのだ。

「や、ややさん……麻生 稍さんです」

医者、と聞いて山口は急に態度を改め、自然と稍から離れて彼に任せていた。

「……ややさん、ややさん、わかりますか?」

医者は稍の耳元で呼びかけた。

「食べ物のアレルギーや喘息とかの持病などはない?」

稍は真っ白な唇を(かす)かに動かした。
「ない」と言ったようだ。

「……先刻(さっき)までの状況からすると、アナフィラキシーショックでも発作でもなくて、パニック症状だな……救急搬送する必要はないか」

医者はぼそりとつぶやくと、

「ちょっと、君、先刻このホテルの部屋のカードキーをこれ見よがしに出してたよね?彼女をこれから一緒に運ぶからさ。どこの部屋か教えてよ」

こともなげに山口に告げる。

「な…なんでそんなこと知ってるんですかっ?」

山口がまた犬のように吠える。

「……うるさいなぁ、病人の前で騒がないでくれる?」

山口はじろり、と睨まれた。

そのとき、ようやく上階に上がる箱がやってきた。

< 568 / 606 >

この作品をシェア

pagetop