今宵は遣らずの雨
嫡子の生母として、此度、藩主の「正室」を引き継ぐ「継室」に据えられた小夜里は、江戸へ参るために支度された立派な駕籠に乗じるところであった。
だが、身を屈めようとして、ふと思い留まる。
怪訝な顔をした侍女を、しばし制した。
小夜里は今一度、辺りの風景を見渡す。
古より荒れ狂う水と闘いながらも、なくてはならない七本もの川。
その川たちに区切られた、平らかに広がる肥沃な大地に、遠くにはまるでこの地を護る盾のごとき山並みが連なっている。
町の何処からでも見える、わたくしたちの御前様がおられる立派なお城。
武家も町家も百姓も、みなが毎日見上げて、誇りに思う、わたくしたちのお城。
その時、浜風が吹いて思わず振り返ると、今日も、凪いだ瀬戸内の海がたゆたっていた。
隔てのない大きな空を見上げる。
雲一つなく、突き抜けるほど青い夏の空だ。
わたくしの愛しき、美しき故郷、芸州広島の地。
……もう、二度と、眺めることはあるまい。