今宵は遣らずの雨
稲田 湧玄は、多摩の裕福な名主の息子だった。だから、百姓であっても名字帯刀が許されている。
だが、家は長男である兄が継ぐため、幼い頃より学問ができた湧玄は医師を目指した。
どうせなら、世間に名を響かせている竹内 玄丞先生の弟子になりたいと思って、江戸に出てきた。
しかし、玄丞は弟子をとらなかった。志願してきた者をことごとく断っていたのだ。
にもかかわらず、湧玄は諦めなかった。
小野小町を求めて百夜通いをした深草少将のごとく、文字通り雨の日も風の日も、逗留していた宿から通いつめ、弟子入りを志願した。
そして、九十九日目の深草少将のごとく、やがて湧玄も高熱を発してぶっ倒れてしまった。
しかしながら、想いを果たせず事切れた深草少将とは異なり、湧玄は玄丞の診立てによって事無きを得た。
しかも、根負けした玄丞に弟子入りを認められたのだ。
結局、玄丞の弟子になったのは、あとにも先にも湧玄だけとなった。