今宵は遣らずの雨

初音が生まれたとき、二親(ふたおや)がまだ安芸広島藩にいた時分に生まれていた兵部少輔は、既に(とお)になっていた。

一方、江戸に渡って来てから生まれた妹の碧姫(たまひめ)とは歳が近かったので、初音は遊び相手として、よく御屋敷に呼ばれていた。

歳は離れていたが、妹思いの兵部少輔はよく様子を見に来ていた。

元服して既に公方(くぼう)様より「兵部少輔」の官名を賜っていたにもかかわらず、初音には幼名の「鍋二郎」で呼ばせていた。


兵部少輔が二十(はたち)を過ぎた頃、初代藩主の父親を亡くし二代藩主の座に就いた。

それからまもなく、親戚筋の大名家から妻を娶った。

初音はやっと十を過ぎた頃だった。


兵部少輔と奥方との間には、なかなか子ができなかった。

藩のためには、世継ぎを必ず()さねばならぬ。

奥方の方が焦っていたようだ。
実家の後ろ盾があるから離縁はないにせよ、このまま子を生さねば側室をもうけられても致し方ないからだ。

だから、此度(こたび)の御懐妊はやっとの思いの果てである。

するとその後は「なんとしても男子(おのこ)を」と祈祷・祈願の神主やら坊主やらで、御屋敷は(かしま)しかったらしい。


碧姫が周防(すおう)徳山藩六代藩主の毛利(もうり) 志摩守(しまのかみ) 広寛(ひろのり)の正室として輿入れしてからは、初音はもう御屋敷に参ることがなくなったので、御屋敷に出入りする者から聞いた話である。


なのに、なにゆえ……

……しかも、奥方様のお産の日に。

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