今宵は遣らずの雨
「……上がるぞ」
初音が云ったことをきっぱり無視して、兵部少輔は下駄を脱ぎ、上がり框に足を置こうとする。
「お…お待ちくだされ」
いくら藩主の御前様といえども、雨の降る外を歩いて来た足で、畳の間に上がることはやめていただきたい。
「御御足をお流しいたしまするゆえ、腰をおかけくだされ」
井戸から汲んだ水を溜めた水甕から、初音は急いで柄杓で水を掬って盥に張った。
そして、上がり框に腰を下ろした兵部少輔の足から下駄を脱がした。
そのとき、濡れないように、兵部少輔が着流しの裾をぱらっと絡げた。
その刹那、初音の心の臓がどきり、と音を立てた。
だが、その方には目を向けず、何事もなかったかのように兵部少輔の足を盥に浸けて濯ぎ、そのあとは乾いた手拭いで丁寧にぬぐって差し上げた。
そのとき、兵部少輔が愛しそうに目を細めて自分を見下ろしていたことを、初音は知らない。