今宵は遣らずの雨

湧玄なら、夕刻になる前に自分の家に戻ったはず……なにゆえ、こんな(とき)に。

「初音さん……」

湧玄がにじり寄ってくる。

初音はじりじりと後ずさる。

「湧玄どの……こんな夜更けに女が独り身の家へ来るなぞ、あまりにも不躾でござらぬか」

思わず、尖った声になる。

土間をじりじりと後ずさっている間に、三畳ほどの小上がりまで来てしまう。


「……初音さん、もう一度云う。
長崎へ……一緒に行ってくれないか」

湧玄は切羽詰まった声で迫った。

初音は激しくかぶりを振る。

長崎へなど行く気は毛頭ない。

たとえ、このまま、この寄る辺ない立場が永遠(とわ)に続いたとしても。


……わたくしは、鍋二郎さまのお(そば)におりまする。

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